歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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⑩石勒の中華戦記 劉趙(前趙)と石趙(後趙)並立。劉曜の嫌がらせ

319年に至り、いよいよ石勒は趙王として完全独立する。

趙皇帝劉曜からの猜疑を受けて手切れとなったためだ。

 

劉曜から仕掛けて石勒と手切れとなったが、

彼我の戦力は実は劉曜が劣勢である。

 

劉曜は、

関中を本拠に河東、河内を支配する。

石勒は、襄国、鄴を中心に、冀州、兗州、幽州、并州、豫州の一部を支配。

青州は曹嶷が実効支配するが附庸国である。

 

ざっくりと319年の勢力圏を表した地図が下記である。

 

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劉曜の支配地には、洛陽と長安があるも、

西晋との抗争で、著しく荒廃していた。

 

 


●劉曜、石勒と手切れ。

 

・319年3月

石勒、劉曜と対立、鮮明化。

劉曜の猜疑により、石勒の使者が殺される。

この使者に従っていた者が、劉曜に使えることになり、

石勒のことを讒言したからである。

石勒へ九錫を与えてから3ヶ月後のことだった。

このタイミングで、この事件が起きて得をするのは石勒である。

石勒はこれ以上、劉曜に付属していてもメリットはない。

私はこの事件は、

石勒が劉曜をけしかけて、敢えて殺させたと考えている。

 

一方劉曜は、関中と河東の掌握のみで、石勒に対して劣勢である。

一度は九錫を与え、石勒には懐柔策で当たることを決めていたのに、

この方針転換は不思議である。

私は石勒側の謀略と見ている。

石勒はこうした謀略に関しては、非常に狡猾である。

ただ、

使者のポジションは石勒の左長史で、直属の属官である。

個人的に石勒が好きでなければこのようなことにはならない。

一抹の疑問が残るところでもある。

 

●元から、対立関係にあった劉曜と石勒。

 

彼ら二人には大した交流はなく、思い入れもなかった。

 

●石勒のスタンス

 

石勒は、鼻から靳準の乱という

匈奴漢の苦境に乗じようとした。

そもそも匈奴漢を主君とは考えていない。

葛陂撤退以来うまくやってきただけである。

劉曜に対しては、洛陽陥落寸前に、

豫州に行けと追い払われた恨みもある。

石勒は洛陽陥落の褒賞を受けていない。

 

●劉曜のスタンス

 

劉曜は、劉淵・劉聡の直系が

滅びれば当然自分が匈奴漢を継承すべしと考えていた。

靳準の乱において、

漁夫の利を得ようとした石勒に関しては、

元より不快であった。

国家の紐帯を維持するために、妥協したに過ぎない。

 

石勒に反乱の兆しが見えるのであれば

対立するのは望むところ、

というのが劉曜のスタンスだ。

 

石勒は河北をほぼ制覇していたが、

それは匈奴漢の帥将であった、

劉曜こそが、

劉曜が西晋本拠の長安を攻めていたからである。

西晋を劉曜が引きつけていたからこそ、

石勒は河北を取れたに過ぎない。

劉曜からすれば、石勒は

河北を掠め取ったに過ぎないという立場である。

 

劉曜は、

石勒の自立志向の行動を許すまじ、ということは

いつでもできた。

それが今回だったに過ぎない。

 

劉曜と石勒は手切れとなった。

具体的には、

劉曜は、石勒の太宰任命を取りやめ、

劉聡がかつて与えた、封侯・官位授与権を取り消した。

 

●石勒は、幽州・豫州を確保、勢力圏を固めきる。

 

・319年4月

石勒は譙の祖逖と戦い、淮南まで撤退させる。

同月、

石勒の部将孔萇は幽州に進軍して諸郡を平定した

それに伴い、段匹磾が

薊から撤退。

上谷に逃れる。

鮮卑の代王拓跋鬱律に攻撃され、

楽陵の邵続のもとに

逃げ込む。

青州の曹嶷の求めに応じ、石勒は両勢力の境界線を明確にした。

 

●劉曜は長安に遷都、国号を趙に替える。趙皇帝劉曜

 

劉曜は、

皇帝になる前からの自身の本拠地、

関中・長安に遷都する。

匈奴漢の帝都、平陽は靳準の乱で荒れ果てていた。

・319年10月
劉曜は、

冒頓単于を祖とし、

趙に国号を変更。

匈奴漢は、漢の高祖や文帝、烈祖とされた劉備を祖として、

宗廟に祀っていた。

ここで、劉曜は、冒頓単于を祖とする国家へと変更。

劉曜は、即位前中山王であり、中山は趙から分かれた国であったため、

趙の国号を採用した。

 

●劉曜が国号を趙に変えた三つの理由


ここには3つの理由があると私は考える。

 

・直系ではないと、皇帝を継げないという考え方。

 

西晋世祖武帝司馬炎に始まるこの考え方。

弟司馬攸対策。父司馬昭の後継者を争ったことから、

司馬攸に帝位は継がせないためのロジックだった。

 

www.rekishinoshinzui.com

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一旦は匈奴漢を継いだ劉曜。

司馬炎が仕掛けたこのロジックは漢人の間に残る。

劉曜は匈奴漢の正統な皇帝ではないと。

 

唯一人の皇帝には、このような噂は嫌なものだ。

であれば、自分の王朝を創始する、そう劉曜は考えた。

 

・漢を継ぐ必要がなくなった。

 

劉淵は漢を継ぐということを旗印に挙兵し、

304年漢を建国した。

これは政治的な判断で漢とした。

それは漢人の支持を得るためである。

 

漢の建国と言うより、復興とした方がマッチするか。

匈奴勢力に押されてやむを得ずの挙兵であった。

その後、結局散々西晋と戦い、西晋を亡国に追いやった。

現在江南で東晋が復興するも、以前の中華統一王朝ではない。

司馬炎のロジックからすれば、

司馬睿は皇帝となり、晋を復興させたが、

実はこの時代においては僭称である。

司馬炎の血を継ぐ者しか、晋は継げない。

司馬睿の東晋は思想上は別王朝である。

但し、司馬炎の子孫は事実上絶えたので、

やむを得ない処置と見ることもできる。

 

・趙王石勒への牽制、というより嫌がらせ

 

私は案外と、これが劉曜の本音だったのではないかと

考えている。

劉曜は一度は石勒を趙王に封じた。

が、手切れとなった。

今となっては石勒が忌々しい。

あの趙王にしたという事実を反故にしたい。

しかし、いくら皇帝と言えど、一度決めたことは反故にはできない。

綸言汗の如し、である。

 

しかし劉曜自身が自分の国を趙としてしまえば、

石勒の趙王というのは事実上の無効になるのではないか。

王というのは、皇帝の御代、その治世下において、

の王なのである。

 

だから、漢帝国の下に漢王はいないし、

晋帝国の下に晋王はいない。

当たり前なのだが、

そこを劉曜は石勒に当てつけをしたのではないだろうか。

下記にも記載するが、

中山を趙とするのは実は無理がある。

劉曜側の方がこじつけて、無理に趙という名前にこだわった可能性が

私は高いと考えている。


●劉曜の趙は、漢地に存する異民族王朝。劉淵の漢とは本質的に異なる。

 

ウィキペディアから引用
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詔を発し「朕の先祖は北方に起こったが、

光文(劉淵)は国民の望みにそって漢の宗廟を奉じ、

国号を漢とした。今、朕は単于を始祖とし、

国号を改めることを考えている。この事について意見はあるか。」と尋ねた。

群臣は「光文帝は最初、盧奴伯爵に封じられ、

陛下も最初は中山で王となりました。中山とは趙から分かれた地です。

国号は趙とするべきです。」と上奏した。

劉曜はこれに同意し、国号を趙とした。

劉曜は冒頓を天に配し、劉淵を上帝に配した。死刑以下を大赦した。
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中山は元は鮮虞と呼ばれ、白狄が建てた国である。

趙から分かれたというのは間違いである。

中山は趙武霊王が滅ぼした国である。

劉曜の王朝が漢人知識に乏しいことがこれでわかる。

 

上記引用文からわかるように、

劉曜の趙は、冒頓単于を祖とするものに変更したとある。

劉淵は祖ではなく上帝となったので、

劉淵が建てた匈奴の漢とは別王朝になる。

 

だから、

劉淵の漢の時代も含めて、

前趙と呼ぶが、

厳密には間違いである。

別王朝だ。

劉淵は高祖劉邦の子孫として国を建て、

劉曜は匈奴冒頓単于の子孫として国を建てた。

 

それぞれの国が標榜している、

歴史と言う伝説が異なる。

全く別の王朝なのである。

事実≠歴史である。