歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

劉淵 漢として自立した真実の理由=劉淵は西晋のエージェントである=

 

 

304年の10月に劉淵は漢を名乗り自立したことになっている。
304年の段階で、劉淵が漢と名乗った理由については、
前200年の白登山の戦いの結果として、勝利した匈奴冒頓単于が漢皇帝と
兄弟の契りを結んだこと、
漢の皇族を妻として娶ったことを挙げている。
匈奴と漢の皇帝は叔父甥の関係であるとしている。

私はこれらの理由は後世の脚色と主張する。

 

 

 

●●●白登山の戦いとは●●●●●

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※前200年に起きた匈奴の冒頓単于と漢高祖劉邦の戦い。
白頭山は、代、現在の大同市の北部に位置する山である。
匈奴のセオリー通りの偽装退却で深追いした漢軍がバラバラになったところで、
匈奴が反転攻勢。漢軍は白頭山において匈奴軍に包囲され、
陳平の策略で、劉邦以下命からがら撤退したという戦い。
劉邦は貢納、通婚(事実上の人質差し出し)を条件とした
屈辱的な和平条約を冒頓単于と結ばざるを得なかった。
なお、漠北から見て、中華へ侵出するルートは案外と少ない。
限られたルートの一つがこの代ルートである。
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しかしこれは劉淵の人物像にそぐわない行為だ。
また皇帝と王という称号の意味から考えると、歴史上の事実とも合致しない部分が出てくる。

私は、劉淵が漢と名乗った理由について、
白登山の戦いを由来とすることに関して私は謝っていると考えている。


●王に留まる意味:称号と劉淵の人物像から探る。

 


304年の10月に劉淵は漢を名乗り自立したことになっている。


しかしながら、この時点では、
王であり、単于に留まる。

この意味については、下記に記載した通りである。

 

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皇帝として立つのか、単于・王として立つのか、
この意味は全く違う。

304年の段階で、劉淵が漢と名乗った理由については、
匈奴冒頓単于が兄弟の契りを結んだこと、

漢の皇族を妻として娶ったことを挙げている。
匈奴と漢の皇帝は叔父甥の関係であるとしている。

正直何かわかるようでわからない理由であるが、
これを根拠に劉淵は国号を漢としたとされている。

既に誰を主体者とするかによって、
兄弟なのか叔父甥なのかが変わってくるだろうが、
何ともぼんやりとした理由だ。

これは前200年、
匈奴の冒頓単于が、白登山の戦いにおいて高祖劉邦に勝利した結果の講和条約による。

この戦いは、漢人と異民族の因縁が始まったきっかけの戦いである。
異民族としては輝かしい歴史の始まりであり、漢人にとっては屈辱の歴史の始まりである。

これを根拠に、匈奴である劉淵が漢を名乗るというのは相当な敵対行為である。
簡単に言えば、喧嘩を売っている。

しかしながら、王は皇帝の下である。
皇帝の天下の下成り立つものである。
この白登山の戦いを根拠にするにしては、中途半端な対応である。

なぜなら、304年には西晋皇帝は存在する。

その上で漢王と称するのみでは中途半端である。

また劉淵自身は西晋が育て上げたエージェントである。
劉淵は相当に漢化されている。
ここまで急速に、先鋭な敵対行為をする理由がない。
また上記ロジックを劉淵が理解できていないわけがない。
これが、相当に漢人の歴史認識を踏みにじる行為だということは、
士大夫以上の中華の教養があるのであれば、確実に劉淵はこの意味を分かっている。

歴史の事実としては、
劉淵が皇帝に即位したのは、308年10月である。

皇帝即位は西晋皇帝への完全な敵対行為なので、
白登山の戦いを由来としてもそれはやむを得ない。

しかしながら、304年の漢王の由来を白登山の戦いに寄るのは、
王号に留まっているのに、その先鋭な行為はちぐはぐである。



●何故漢と名乗ったか。



まとめると、
王号に留まる意味と、
白登山の戦いを由来として漢と名乗るというのは全く意図がちぐはぐであるということだ。

では、
劉淵が漢と名乗ったのは、どういった理由か。

私はここは原点通りでよいと考えている。

匈奴、具体的には南強度が、

漢という中華の地に封じられたことによると私は主張したい。


呼韓邪単于が前漢に降り、漢地に封じられた。
この場合の漢地とは、長城以南のことである。
そこは漢帝国の領域である。それを漢と呼ぶのは当然である。
劉邦の時の漢中の意味ではない。

中華の歴史において、
宋に至るまで、初代皇帝となった者が一番初めに封じられた地を
国号とするというのは連綿たる慣例である。

漢、新、魏、呉、晋。
全てそれに則っている。

劉淵はそれに則っただけである。

そこに三祖五宗の話が出てくると、大きく矛盾してくるが、
これは皇帝即位後の話だ。
304年の自立から308年の皇帝即位まで、
本拠地を転々としているので、宗廟を作ったのは、
皇帝即位後である。
当たり前だが、宗廟は移動施設ではなく、非常に立派な施設であるから、
簡単には動かせない。また動かすものではない。

 


●なぜ劉淵が漢を選んだ理由が、白登山の戦いに由来するようになったのか。

 



ということで、結論として劉淵が白登山の戦いを由来として、
漢と名乗ったというのは、
事実ではない。

304年の漢王という王号は中華の慣習通りである。
308年には確かに皇帝を名乗ったが、
それは白登山の戦いを由来にしたは、後付けである。
ほかの皇帝と同様、初封地に由来する。
匈奴単于の末裔である劉淵が漢を名乗ることは理屈が通る

では、何故白登山の戦いを由来とするという話が出てきたのか。
304年の劉淵漢王を称すタイミングで白登山の戦いを出すことになったのか。

これは、
そうした歴史のストーリーにしたい人物がいると考えざるを得ない。

劉淵自身に明確な意図がなかったとすれば、
別の人間の思惑がここには隠されている。

上記の話の由来は、
晋書による。

晋書を作った人物の思惑がここには反映されている。

 

晋書については、次の記事にて言及する。