歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

戦国時代初頭、三晋の最弱は趙である。


戦国時代が始まった段階での最弱国は、趙もしくは燕ではないか。

三晋の中では趙が最弱なのは間違いない。

 

 

 

前453年に晋陽の戦いにおいて、

智氏が敗れたことにより事実上の戦国時代が始まる。


●韓・魏の領域

 

魏氏は、河東をメインに、河内の諸都市を支配。

河東は旧晋の本拠なので、ここを押さえているのは大きい。

これにプラス、河南の地も押さえている。

魏は西は秦からの攻撃に晒されるが、

東の地は、衛、鄭、曹に対して優勢で、領域を広げる。

 

韓氏は、河東の東にある平陽が本拠である。

この周辺と、上党の地、そして河内と領域が広がる。

上党をほぼ韓のみで持っているのも大きい。

上党は盆地で周囲を山々に囲まれている。

交通の要衝で、中原にも河内にも出られる。

韓は主に河内、河南方面に進出し、鄭の領域を奪っていく。



●劣勢の趙

 

一方、趙は、晋陽、代、邯鄲エリアである。

まず場所の名前を一見してわかるのが点と点のつながりに距離がある。

それぞれが遠い。

晋陽、代は完全に狄のエリアで、後進地域である。

このようなエリアしか趙は持っていないのである。

 

これは、趙氏が一旦滅亡していたためであろう。

趙武が韓厥の助けを得て、

趙家を復興したが、食邑はそのままではなかっただろう。

趙武自身も他家から恨みを買わないように、

非常に慎重にしていたというエピソードが伝わる。

 

他家の領域に踏み込むようなことはしなかったはずだ。

 

それが変わってきたのは、

趙武の孫・趙鞅である。

 

趙鞅は前500年に邯鄲を取る。

邯鄲は太行山脈の東で鄴の北、中原に位置する都市である。

 

 

ここから趙軮は衛に内政干渉し、

趙軮は衛を自身の傘下とする。これでようやく先進地域、中原への

足掛かりを掴むが、韓魏に比べれば大したものではない。

 

この後、趙軮は、庶子の趙無恤が代を得て、

ようやく六卿の中で対抗する力を得る。

 

時は六卿同士の争いが激化していた。

趙軮はその中で、范氏、中行氏を滅ぼし、

徐々に食邑を増やす。だが、他家には及ばない。

 

 

晋の最後の正卿でもあった趙軮は、大きく勢力を伸長したものの、

他家を上回ることなく、世を去る。

 

後を継ぐのは庶子の趙無恤。

智氏、魏氏、韓氏の中で圧倒的な弱者の趙氏は、

手をこまねいていれば初めに滅ぼされるべき存在であった。

 

だからこそ、代を果敢に謀略で刈り取ってきた趙無恤を

後継者にしたのである。

 

晋陽の戦いで、趙が韓魏を裏切らせて、

智氏に勝ったが、その後も趙の劣勢は変わらない。

 

事実上の晋の後継者魏の意向を伺いながら、

復興の恩がある韓との協調姿勢を保つ。

 

そのため趙は、晋陽の戦いの勝利から、

100年雌伏の時代である。

 

趙侯室の後継者争いもあり、

他諸侯の後塵を拝した。

 

趙の存在が増してくるのは、

武霊王が登場するときである。

ちょうど、

秦の攻撃で、

韓魏が退潮したタイミングであった。

ここから100年、趙は秦と全面対決する。

だから、趙はとても格好よく印象に残る。