歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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石虎の輝かしい功績と不遇

 

石勒と石虎の間には、

ただ一族というだけではない、

苦難を共に過ごした同志としての

つながりもあった。

 

●石勒の、石虎に対する高い信頼

 

石虎は石勒の母とともに

劉琨に囚われの身となっていた。

石勒が奴隷として売り払われてから、

生き別れとなっていたが、

石勒の故郷并州を治める劉琨が探したしだのだろう。

 

劉琨が石勒に降伏勧告をする際の材料として、

石勒の葛陂駐屯の時に返還された。

 

この時から石虎は石勒に従っている。

314年の葛陂撤退の際には、

石虎は東晋勢(東晋成立前なので司馬睿勢が正しいが)に

戦いを仕掛け、引きつけて石勒の退却を助けた。

いわば、殿(しんがり)を務めている。

 

殿は、軍勢が撤退する際に、最後尾で

敵の追撃をくい止める役割である。

戦いで最も死傷率が高い軍事作戦である。

しかしこれがうまくいかないと、撤退できず、

最悪の場合全滅する可能性もある。

 

だからこそ最も有能な人物を当てる必要がある。

そして、退却する総大将からすれば、

その殿を担当する人物に

背後を絶対に突かれないと確信できるほど

全幅の信頼を置ける人物でなければならない。

 

この時点で最も信頼できる人物を当てる必要がある。

葛陂における石勒にとっての

そうした人物が石虎であったのだ。

 

石虎は当時若干19歳。

よほど際立った才能があり、

よほどの信頼関係があったのだろう。

 

この後、

葛陂から華北へ撤退した石勒は、

幽州の王浚に備えて、襄国を本拠とするが、

やはり背中は石虎に任せた。

 

石勒が北の王浚に向かう時、

背後は南の鄴なのである。

その鄴を石虎に任せた。

 

この曹操以来の要地、華北の覇者の地と言ってもいい、

軍事的にも政治的にも最重要都市を、

石勒は石虎に任せているのだ。

 

石虎は石勒の族弟である。

 

今のように核家族ではない当時。

一族というのは核家族よりも広かった。

同じ世代は一括りにされ、

その中で年齢で上下関係ができた。

 

そういう意味での族弟なのである。

 

しかし石勒と石虎の年齢、21歳も差がある。

 

事実上の親子のような関係、

少なくとも養子関係にはあると思った方がいい。

 

石勒が

能力も認め、

全幅の信頼を置き、

事実上の息子のような存在、

それが石虎である。

 

●石虎の主要な戦歴一覧:

 

●312年鮮卑段部との講和条約締結を行う。

●317年の祖逖北伐の迎撃

●318年靳準の乱の先鋒

●320年冀州刺史邵続の捕獲。

●321年鮮卑段部を壊滅させる。

●323年青州の曹嶷を滅ぼす。

●325年洛陽から劉曜の前趙勢を駆逐。

その後洛陽を取り返されて、

●328年の、石勒・劉曜の洛陽決戦。

始めは、并州経由で石虎が劉曜を攻撃したのが事の端緒である。

劉曜処刑。

●329年 劉曜のいなくなった

前趙の本拠地関中への進駐の中心は石虎。

石虎が中心となって占領行政を行う。

 

上邽に逃げた劉曜の子たちを殺害し、前趙を滅ぼす。

ここで後年石虎の皇帝治世を支える、

羌族の姚弋仲(ようよくちゅう)に降伏を受ける。

 

このように石虎は、

石勒の覇業に関して

常に主要な業績を挙げ続けてきたのである。

石勒からの信頼は絶大で、

そして常に高い能力を発揮していた。

 

 

●皇帝の受ける天命は直接の血の繋がりがないと継承できない。

 

本来ならば、

石勒は石虎に後を継がせたかった。

 

しかしそれはできなかった。

 

皇帝とは、初代の皇帝が天命を受け、

それを血の繋がりのある子供が

受け継ぐという考え方をする。

 

石虎は、石勒にとって実の息子のような存在だが、

血は受け継いでいない。

だからできなかった。

 

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●石虎は一族ではあるが皇帝位を継げない。

 

石勒が全幅の信頼を置いた石虎。

石勒自身に似ていて、軍功も抜きん出ている。

軍権の最高位にあり、

軍事上の成果も最高峰。

 

石勒の子と言ってもいいほどの信頼関係。

石勒は石虎のことが好きだった。

 

石虎は異民族の弱肉強食を

地で行く人間だ。

一時は石勒の影響を受け、

漢人の教養を持って振る舞おうとしていたが、

それは一時的なことに過ぎず、結局できなかった。

 

異民族の流儀を

石虎は体現するからこそ、

奴隷から皇帝にまで

這い上がった石勒のいうことなら

確実に聴く。

異民族は完全実力主義なのである。

石勒は完全実力主義の頂点であるからだ。

 

兄とも父とも思い、

何よりも尊敬していたのだろう。

 

そのような関係の

石勒と石虎。

 

しかし大きな問題があった。

石虎は石勒の血を継いでいないのだ。

これが大きく響いた。

実子ではないのだ。

石勒の血を継いでいない石虎は、

石勒の後を受けて皇帝になれないのだ。

 

石勒の後を石虎が継ぐ、

それは劉淵、劉聡の後を

劉曜が継ぐのと同じになってしまう。

 

●中華皇帝、その厳しい条件

 

劉曜は劉淵の族子、

つまり親戚の子で劉淵の子供の世代、

一つ下の世代ということだ。

 

異民族なら、これでも弱肉強食、

力の論理で後を継ぐこともできただろう。

 

大体、異民族には文字も系譜もないのだ。

そのようなことは履歴には残らない。

 

残っているものは、

正統性主張の為だから、

綺麗な系譜になる。実態ではない。

 

だから、本来異民族の社会では、

劉曜のような継承の仕方はあったのだ。

 

しかし、

劉曜も石虎も後を継ぐのは

漢人文明が産み出した皇帝と言う地位である。

特にこの時代、

司馬炎のおかげで

他の親族の皇位継承は

認めないという考え方が根強い。

 

 

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この西晋末から五胡十六国時代初期は、

西晋の影響を各王朝と受ける。

この司馬炎の考え方をスルーすると、

中華皇帝としての正統性が損なわれるのだ。

 

劉曜すら、王朝名を変えた。

自分自身が王朝の祖となった。

 

ということは、

石勒の後を石虎が継ぐには、

新しい王朝ということになる。

 

石勒の実績とカリスマで、まとまっている

後趙のあり方を前提から覆す。

非常に難易度の高い選択肢だ。

 

また石勒は胡漢融合に腐心してきたが、

それは石虎に推進するのは難しい。

 

一方で、

まだ東晋、成漢もあり、

中華統一は、道半ば。

非常時なので、

軍事に強い石虎に継がせるという発想もある。

石勒から石虎に継承する。

 

●石虎、鄴を没収される。

 

 

これ自体が、

異民族の発想であり、

胡漢融合に注力してきた石勒の方針の

転換にもなってしまう。

石勒は華北の統一が

見えたこの段階で、

石虎を鄴から外す。

 

国家運営、国家継承のために、

石虎を政権中枢から外すしかなかった。

劉曜との洛陽決戦の後は、

石虎が戦陣に赴くケースがなくなる。

 

石勒は石虎を外す。

石虎は不遇の時を過ごす。

石勒の王朝運営のためには仕方のないことであった。

石虎は石勒には従順である。

石勒に対して害意を抱かなかったのが、

この二人の特殊な関係性を窺わせる。

 

●参考図書 :

 

西晉の武帝 司馬炎 (中国歴史人物選)

西晉の武帝 司馬炎 (中国歴史人物選)

 

 

 

読む年表 中国の歴史 (WAC BUNKO 214)

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中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

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中国文明の歴史 (講談社現代新書)

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魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

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