歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

【春秋晋の年表③】晋公の無力化から三晋成立へ

 

 

 

 

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●前574年、晋文公以前からの名族、郤氏を晋の厲公が族滅。

 

前574年、
晋の厲公が
胥童に命じて三郤を誅殺。郤氏を滅ぼす。

 

・欒書の主君殺し。

 

この行為に脅威を覚えた欒書と荀偃は結託し、

晋の厲公を殺す。

 

周から公子孫周を迎えて晋の君主として建てる。

晋の悼公(在位 前574年ー前558年)である。


晋の襄公(晋の文公の子)の曾孫(ひまご)が

孫周に当たる。

 

●前574年、晋最後の名君、晋の悼公

 

晋の悼公(前587年生―前558年没。在位 前573年―前558年)

を君主にした正卿の欒書は、その後すぐに政界から引退する。

後任は韓厥である。

 

ここからはの晋は、安定する。

晋の悼公は中興の祖と言えるが、

どちらかというと卿に恵まれた。

 

・韓厥と荀罃(智罃)

 

韓厥、その後の正卿の

荀罃(智罃。荀林父の甥。父は荀首。荀林父の系統が中行氏。

荀首の系統が智氏である)、

は名臣であり、晋の中興を支えた。

 

韓厥は趙朔の遺児趙武を匿い、

前583年に晋の景公に進言して、

趙氏復興を支援した。

元来、親交の深かった韓氏と趙氏だが、

これを持って、戦国時代に両氏が滅びるまで、

一貫して両氏は協調関係にあった。

実に350年以上に及ぶ友好関係である。

韓厥を認めたのが趙盾であり、

お互いに両氏は相性が良かった。

 

荀罃は父荀首とともに、前597年の邲の戦い(ひつのたたかい)で

親子ともども捕虜となっており、9年間楚で捕虜生活を送った苦労人である。

 

叔父の荀林父は邲の戦いの晋国総大将として戦い、大敗した。

その責めを一人負うかのごとく、この荀罃が楚に抑留された。

荀罃は晋へ一貫して忠誠を誓い、楚になびくことがなかった。

 

これが荀氏から二系統の正卿が立っても、批判が起きなかった所以である。

他氏からの嫉妬、警戒をされ、一度族滅の憂き目にあった、

趙氏と対照的である。

 

●晋平公の即位  六卿体制の確立。すなわち事実上の寡頭制へ

 

前558年に晋の悼公が死去。29歳での若死にであった。

後を晋の平公(在位 前558年―前532年)が継ぐ。

 

叔向の輔佐の下、正卿は趙武、次卿韓起の時代が、

晋の覇権が最も安定した時代であった。

 

・欒氏の滅亡。范氏の謀略。

 

一方で、前552年に欒盈が晋を出奔し斉に亡命、

その後、前550年に欒盈は斉兵を引き連れて晋を攻撃、

失敗し欒盈は殺される。欒氏が滅亡。

范氏の謀略であった。

欒氏は晋公から別れた名族だが、

結果的に范氏にはめられた。

范氏は欒氏の反乱に加担していたのに、梯子を外したのだ。

 

これで六卿体制が確立する。

 

・趙氏・韓氏協調。

 

前541年に趙武が死去、韓起が正卿を継ぐ。

前514年まで韓起は正卿を27年間務め、

晋の正卿の在任期間で最長である。

晋の平公は前532年に死去。

 

これ以後晋公の事績はほとんど語られることがなくなる。

 

韓厥、韓厥が助けた趙武、趙武が引き上げた韓起。

この韓氏、趙氏の両氏協調関係は晋の安定期をもたらした。

実に、断続的にではあるが、50年近くに渡る。

 

両氏の協調を中心に、他氏とのバランスオブパワーも成り立った。

 

一方、晋公の存在感が反比例して没落。

 

●前514年六卿体制確立、とともに六卿争乱時代へ。

 

前514年には、

公室から分かれた、祁氏・羊舌氏が正卿魏舒の主導で

六卿に滅ぼされ、晋公の権限はないに等しくなった。

 

六卿は晋の領地の大部分を占有、

正卿を持ち回りで就任し、晋国全体の実権を握る。

晋公を守るべき、晋公から分かれた諸族がこれで滅びてしまったのである。

 

前513年

趙鞅は中行寅(荀寅)と共に、士匄(范宣子)が定めた法を

鼎に彫り付けた刑鼎を公開し、これが晋で初めての成文法となった。

 

 

前506年 呉王闔閭が楚の王都郢を陥落させる。

だが、越が呉本国を突いたため撤退することになる。

このころから、中原の争奪戦から、各地での攻防戦が中心となる。

楚が中原を伺うことができなくなり、

晋は分裂することにより、互いが互いの地域で争いを始める。

 

 

●前497年晋、事実上の分裂へ。

 

前497年 趙氏に内紛。それに范氏、中行氏が乗じたため、

晋全体の争乱へと発展。

この趙氏内紛は、范氏、中行氏が仕掛けたものである。

 

――

晋がこれで寡頭制の国から、各卿が相争う時代となる。

晋は晋としてまとまった行動を起こすことがこれ以後できなくなった。

 

呉が伸長して、楚が中原に関われなくなった。

またほぼ同時期に斉では田氏(田乞)が握り始める。

前500年前後のこれらの事件が起きたこの時期に、

私は春秋時代は終焉したと考える。

 

時代区分は定義の問題であるので、歴史家にお任せするが、

ここで事実上時代が変わったと私は考える。

 

その象徴的な事件が、

前455年から前451年(前455年~前453年)の

晋陽包囲からの趙氏(趙無恤)逆転であり、

前401年(前403年)の周王により三晋、韓魏趙が諸侯として承認されたことで

ある。

しかし、これは、

わかりやすい事件、わかりやすい結論に過ぎない。

象徴に過ぎない。

 

これ以前に、晋は事実上分裂しており、

事実上の戦国時代は始まっていたのである。

 

 

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余談だが、

上記の趙氏内紛で領地を削られたため、

趙氏は戦国時代の出足が遅れた。参考記事は上記である。