歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋北伐⑭356年桓温の第二次北伐 洛陽侵攻 、桓温のねらい

354年の桓温第一次北伐から356年桓温第二次北伐までの

中華情勢に言及して、桓温の軍事上の狙いを考えたい。

 

 

●前燕の鮮卑慕容部が勢力を大きく伸張させる。

 

桓温は母の葬儀を執り行うことを許されず、

荊州にそのまま駐屯した。

 

石虎以後、混乱の続く華北ではあるが、

華北の東半分(つまり河北)を支配した、

鮮卑の前燕が徐々に華北自領へと取り込んでいく。

 

前燕は鮮卑慕容部が建てた国である。

鮮卑慕容部は、後趙石虎の侵攻を跳ね返すほど、

軍事力は強かった。

 

そのためか、

352年の前燕建国以後、

東晋や関中の前秦に対しては強硬姿勢を崩さない。

 

事実、戦いは強いのだが、

外交上は孤立状態にあった。

極端な軍事国家、それが前燕である。

 

それでも前燕は、四方を攻略し、

領土を拡張していく。

 

皇帝慕容儁の下、

叔父慕容評、弟で名将として名高い慕容恪、慕容垂などが

各地を転戦、攻略を進める。

だが、領土が広がると、

戦線は拡大する一方で、各有力将軍が直接督戦できる範囲にも

限りがあるので、追いつかなくなる。

 

そこに目をつけたのが桓温である。

 

●桓温ができるのは寡兵による電撃戦、その効果的な目標はどこか。

 

桓温は、再度の北伐を計画した。

繰り返しになるが、

桓温の軍事戦略は、電撃戦である。

一気呵成の奇襲で、間髪入れず、

相手の本拠地を攻略。

それにより国家自体を揺るがし、

国家として機能不全を起こさせ、滅亡へと追い込む。

成漢の成功体験は、桓温のセオリーとなる。

 

桓温第一次北伐は、前秦の本拠長安に電撃戦を仕掛けたが、

前秦が麦を青田刈りして、長安に引きこもったので、

戦略は成功しなかった。

 

再度の電撃戦は警戒されているので、

前秦には通用しない。

 

 

であれば、前燕の支配下にある鄴、および帝都薊へ電撃戦を仕掛けたいところだが、

前燕の諸将が優秀なので簡単ではない。

 

※前燕は353年2月に遼東の龍城から幽州の薊に遷都、

357年11月に鄴へ遷都することになる。

 

そもそも、動員兵力が4万程度しかない桓温に対して、

前燕皇帝慕容儁の下、一つにまとまっている前燕は、

動員兵力10万人は見込める。

 

まともにぶつかったら桓温に勝ち目ないのである。

 

そこで考えたのが洛陽攻略である。

 

洛陽は、

西晋期において、牢獄として使われていた金墉城以外は、

廃墟である。

 

都市としての価値がないので、

前燕からは重要視されていなかった。

 

東の前燕、西の前秦から両者から見ても、外れにあたる洛陽。

 

しかしながら、

東晋にとっては、ここは古の都。

 

ここを回復することは、国威発揚に大きく寄与する。

 

そして、西晋の皇帝たちの陵を修復し、

祭祀を行うことは、東晋にとって大きな意味があった。

 

桓温は、庶民の高い支持を得ているが、

洛陽を攻略することができれば、

貴族名族たちに圧力を加えることができる。

 

もっと桓温に兵力を預けよ、

貴族名族たちが私有している財産や民を拠出せよ、

特別待遇されている僑籍の民をも軍役に就かせよ、

これが桓温の洛陽攻略の目的である。

 

第一次北伐において、

桓温の持つ軍権だけでは限界が見えた。

 

東晋という国を動かすために、

桓温は、

洛陽攻略を思い立った。

 

つまり、結論として、

桓温は土断法の実施を見込んで洛陽攻略を

選択した。

洛陽攻略は次の一手のための布石に過ぎない。

 

東晋の内部事情に配慮しなければならないのが、

桓温の限界とも言える。

 

●洛陽を狙う、姚襄と桓温

 

 

当時、洛陽は後趙の残党が乗っ取って、

前燕から離れていた。

 

そこを許昌に駐屯していた羌族の姚襄が攻撃を仕掛ける。

姚襄は352年の殷浩北伐の際には、

東晋に所属していたが、

殷浩に疑われたことで離反し、前燕に属していた。

 

前燕に属すという形は取っていたものの、

姚襄は半独立勢力であった。

 

東晋から離反した直後は、

江北の盱眙(くい)に駐留。

 

しかし、

312年石勒が葛陂で立ち往生したように、

やはり騎兵主体の羌族首領姚襄も立ち往生した。

 

後に前燕に属しながら、

盱眙(クイ)から許昌に移動したのである。

 

姚襄が洛陽を攻撃しているところに、

背後から桓温の軍勢が迫る。

 

姚襄率いる遊牧民の羌族は、一致団結しているとは言え、

349年の石虎以後流浪の民である。

 

慣れない華北平原を徘徊し、

疲労が溜まる一方である。

 

それに対して、

桓温軍は、気力体力ともに充実していた。

 

実はこれは桓温の運の良さもあった。

桓温は再三、というより10回以上、司馬昱に、

洛陽攻略の上奏をしていた。

 

しかし、許可が降りなかった。

降りたのは、姚襄討伐であった。

しかし、姚襄が洛陽を攻撃していたこと、

そして、桓温が直前に司州の軍権を与えられたことで

名分が立った。

 

洛陽は司州に属する。

桓温がその地域の軍権を得たということ、

しかしそのエリアは敵国に支配されているということは、

すなわち攻略せよということを意味する。

 

こうして桓温軍は姚襄、そして姚襄が攻撃する洛陽を確保するという

目標になったのである。

 

● 裏切り者姚襄、そして実は洛陽を目的とする桓温軍は士気が高い。

 

 

桓温軍の戦略目標は、

西晋の旧都洛陽、中華王朝の象徴的な都市。

 

これを回復することは、東晋がかつての西晋王朝と同じ中華王朝としての

資格を取り戻す事に他ならない。

 

それを東晋の常勝将軍桓温が行うのである。

 

兵の士気も高い。

 

大義名分が明確で、

気力体力ともに充実している桓温軍。

桓温得意の電撃戦がうまくいけば、

洛陽攻略は手堅い。

 

洛陽攻略は桓温の事績の中でも非常に象徴的な功績であるが、

非常に用意周到な作戦であり、

そして、打算的な戦略目標であった。

 

 これが成し得れば、土断を進めて、兵役に従わせられる

貴族が抱えている民を使える。

 

民は桓温を支持しているので、

これで華北の大規模軍事行動を桓温が起こせる、

そういう算段なのである。