356年8月に姚襄を打ち破り、
洛陽城内へ桓温は入城。
桓温の第二次北伐は洛陽奪取という快挙を成し遂げた。
しかしながら、洛陽自体は廃墟なので、北西の金墉城に入る。
八王の乱の時に、争いに負けた宗族たちが閉じ込められた場所だ。
当時の事実上の牢獄代わりで、ロンドンタワーのようなものである。
桓温はそこに拠点を置いて
西晋の皇帝陵墓を修復。
大変名誉なことである。
桓温はここから周辺地域への討伐に向かうかと思えば、
357年中に本拠荊州へ帰還する。
東晋内の情勢を考えると、実は洛陽が精一杯だったのだ。
●何故桓温は撤退したのか
・東晋内の政治抗争
元々の東晋政府からの勅命では姚襄討伐までなので、
これ以上は動けなかった。
後に桓温はこの洛陽回復という快挙で、
東晋の権限を握っていくというストーリーが良く描かれる。
しかし、そうではない。
桓温は晩年まで常に東晋内部の政治抗争に
苦労していた。
私も、桓温に周囲をもう少し攻めてほしいとは思うものの、
東晋内部にそこまでの覚悟はなかった。
東晋内の対立勢力に桓温は足を引っ張られたのである。
そこをさらに踏み込むというのは桓温の東晋内での立場を難しいものにする。
・兵が足りない。
また、この時桓温が率いた軍兵の数だが、
10万には全く届かない数だったはずである。
通例で考えると、4万人程度。
第一次北伐や成漢征伐の動員数を考えると
この程度である。
これで、前燕、もしくは前秦と全面戦争を戦うのは無茶な話である。
少なくとも、同程度の戦力と敵地にて戦わなければならず、
兵站も伸びきっているので不利である。
●前燕は既に鄴まで勢力を伸ばしていた。
前燕はナンバー2の慕容恪が青州の段部と抗争中だが、
鄴にはナンバー3の慕容評がいた。
慕容評は前燕宗族のトップでいわば長老格だが、
慕容恪と年齢は変わらない。
武勇に秀でて、慕容恪の手の届かないところを常にフォローしていた。
案外とそつないのが慕容評である。
桓温が河北へと攻めると、
この慕容評との対決となる。
そして多分黄河を挟んでの戦いとなる。
勝敗が分からない戦いとなり、
そこまでリスクを背負える桓温でもない。
得意の電撃戦はこの情勢ではまず使えず、
自重するほかないのが前燕戦線である。
●前秦戦線はどうか。
前秦は苻生の治世下である。
苻生は暴君とされており、
国はまとまっていなかった。
国の状態としてはチャンスだが、
西に進むには、
函谷関、潼関を含む隘路を進まなくてはならない。
四万程度の軍勢で、
立て籠られても勝てる見通しはなく、
撤退することになる。
しかし後方で押さえているのは、
洛陽周辺しかなく、
桓温が不在の中、前燕に洛陽を突かれたりしたら、
撤退もできなくなる。
●姚襄との激戦の疲労
そして何よりも、
洛陽周辺を獲っただけとはいえ、
桓温軍4万に対して、
姚襄は5万戸と言われる。
戸数なので家族単位だ。なのでこの数字通りに考えると、
姚襄は
20万人以上を連れていたことになる、
少なく見積もっても、桓温と同程度の軍兵はいたと思われる。
また騎兵に関しては数千いたとされる。
桓温は馬の調達が難しいので、
姚襄軍の騎兵率は桓温軍を上回っていただろう。
騎兵による突撃、遊撃に桓温軍は翻弄された。
そうしたなかの、桓温対姚襄の伊水決戦であった。
相当な激戦であり、
兵士も疲れていたのである。
この内外の情勢を踏まえ、
桓温は撤退に踏み切った。
私も含め桓温の進撃を期待してしまうのだが、
実は洛陽が限界というのが、桓温、ひいては東晋の現状だったのである。