歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

謝安批判論。政権掌握も淝水も一時の幸運に過ぎない。 東晋末期①

謝安は反桓温派の貴族名族を代表する人物である。

だから、

のちに王導の瑯琊王氏とともに、

貴族トップとなる。

 

王導と同じく貴族名族へ利益誘導したからである。

 

謝安は桓温の死後政権を掌握したが、

それはほんの一時期に過ぎない。

 

 

その間、淝水の戦いがあり、

それも勝利したから、さも謝安は素晴らしい人物とされるが、

それ以外何もない。

 

ただ、最後は後に愚劣な人物とされる宗族の司馬道子に

政権を追われただけである。

 

愚劣な人物に政権を追われるなど、

謝安とはどれほどの人物なのか、と疑いたくなる。

 

謝安などは大した人物ではなく、

後の貴族名族たちが自分たちの立場を守るために、

誇張して流布されたのが謝安である。

 

下記に謝安政権掌握前後の経緯について

記すが、

謝安の話を期待していた方には申し訳ないが、

それ以外の人物がどうしても中心となってしまう。

 

 

●東晋の内部闘争グセ。

 

そもそも東晋というのは、

建国当時から派閥と呼んでもいい、

諸勢力の集合体であった。

 

各派閥が妥協して構成するのが

東晋である。

 

この東晋を取り仕切るのは時代によって、

諸勢力のパワーバランスによって変わっていく。

 

ざっくりと言うと、

東晋の建国から見ると、

王敦に始まり、庾氏三兄弟、桓温と続いた。

 

桓温は王敦の荊州軍閥的側面と、

庾氏三兄弟の皇帝の姻族、そして法家的側面の

両方を受け継ぎ、かつ軍事の才能が有ったので、

強かった。

 

なので、373年の桓温の死を境にバランスを崩す東晋。

これ以後、東晋が安定することは結局なかった。

 

宗族、貴族、旧桓温系の三つ巴の争いとなる。

 

結末は420年の劉裕による東晋皇帝からの禅譲である。

 

これは謝安が幸運にも全権掌握できたが、

すぐに宗族の司馬道子に放逐され、逼塞を余儀なくされた貴族名族の

巻き返しである。

貴族名族たちが劉裕を抱き込んだ、これが東晋滅亡の結論である。 

 

●桓温の死、淝水の戦いという二つの事変が歴史を変える。

 

一方、華北。

河北の前燕の快進撃は、慕容恪の死でストップ。

権力争いの結果として

慕容垂が亡命。

これを好機として前秦宰相王猛が前燕を滅ぼす。

華北を掌握する苻堅。

 

江南の東晋も、河北の前燕もそれぞれ、

桓温と慕容恪という類まれなトップリーダーがあってこそ

まとまっていた。

改めて二人の存在の大きさを感じる。

 

慕容恪、桓温亡きあとの中華世界をリードするのは

苻堅である。

 

苻堅は

中華統一へと邁進するも、

383年の淝水の戦いで敗戦。

 

華北もこれを機に大混乱となる。

 

439年に北魏が華北を統一するまで、

56年混乱が続く。

 

●南北それぞれで、異民族内、漢民族内の抗争始まる。

 

東晋は373年の桓温の死から、

420年の劉裕による禅譲という結末を迎えるまで、

東晋内の権力争いが続く。

47年間ずっとまとまりがない。

 

ちょうど南と北、それぞれで内部闘争を行う。

それぞれが争っていたので、

内部闘争に集中できたとも言える。

 

どちらかがまとまってしまっては、

内部で争っている余裕もない。

外憂でまとまるしかない。

そういう意味では桓温は幸運だったとも言える。

 

北は異民族、いわゆる五胡の群雄割拠。

氐族、羌族、鮮卑族の闘争である。

 

南は漢人の派閥争いである。

王氏・謝氏に代表される貴族名族、

宗族、

亡き桓温の残存勢力、

の3勢力の争いとなる。

 

 

●南の漢民族抗争は桓温の死がきっかけ。

 

東晋皇帝が死んでも影響は大した影響はないが、

桓温が死ぬと、東晋は激変する。


373年に桓温が死去。

桓温は4歳の桓玄を後継者とする。

 

年端も行かない桓玄を後継者にした。このことで、

よく言われるのが、

桓温が晩年桓玄を溺愛したからという話だ。

 

だが、ここまで桓温の非常に現実的で、

かつ実行力のある、果断な性格を見てきたら、

それを鵜呑みにすることはできない。

 

敵対勢力を油断させるための

桓温側の意図的な宣伝工作であった可能性もある。

また、桓温と敵対する勢力が桓温を意図的に貶めるためだったとも言える。

桓温は4歳の子を後継者にするなどという暴挙をしたとして、

晩節を汚したといいたいわけだ。

 

しかし、これは桓温の主体的な判断だと私は主張する。

 

結局、

桓温の子供たちは父桓温を超えられない。

 

これが桓温の結論だった。

 

であれば、

確実に撤退をするほかない。

中途半端な人間を後継者に据えて敵対勢力から叩かれるわけにはいかない。

綺麗に引き下がる、これが桓温晩年の結論だった。

 

この非常に難易度の高い政治的撤退戦を

桓温が最も信頼した末弟の桓沖に託した。

 

結果として、

桓沖は軍事力を含めて桓温の勢力を保持したまま

建康を撤退し、荊州に帰還することに成功する。

 

このようなことが非常に難易度の高い行為を成し遂げた人物を

私は桓沖以外に中国史には知らない。

 

桓沖が桓温に負けるとも劣らない人物で、

副将としては第1級の人物であることがこれだけでも十分にわかる。

 

●桓温の、4歳の幼子を後継者に据える真意 

 

桓温は優秀な末弟桓沖に後事を託すに当たり、

年端もいかない4歳の末子桓玄を後継者に据えた。

 

理由は、この難易度の高い撤退戦を桓沖に託すためにも、

状況をできるだけ整備するためだ。

 

桓沖のやりやすい体制にしたい。

ほかの成人をしている子では叔父桓沖の意向に沿わないかもしれない。

桓沖はあくまで分家であり、桓温の実子は本家筋である。

拒否されたらどうにもならない。

 

反桓温派に対して闘う意思のないことを示そうというものだ。

桓温は耄碌して4歳の幼児を後継者にした。

桓温陣営はもう終わりだと、判断させるには十分である。

 

これほどまでに常識外れで、破天荒な決断ができるのが

桓温の凄さである。

 

亡き桓温陣営を率いる桓沖は、

謝安と妥協して帝都建康を去る。

 

荊州は亡き桓温陣営の勢力として

半独立化するが、

建康の権力は手放した。

 

●謝安は苻堅の脅威もあって権力を掌握していく。

 

代わりに建康政府は、

貴族名族のひとつ謝安が掌握する。

 

謝安と桓沖の妥協の中、

華北は苻堅が着々と支配領域を拡大していく。

 

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こうして380年から苻堅による東晋攻撃が本格化する。

 

手始めは荊州は襄陽から攻める。

1年かけて襄陽を落とす。

 

そのまま南下して桓沖を攻めるかと思いきや、

前秦は東進して揚州へ攻める。

 

時間をかけるのを嫌がったのか、それとも

桓沖が組みしにくいと判断したのか。

建康の謝安は防戦体制を整える。

 

荊州の桓沖は援兵を建康に出すも、

それを断り、荊州に返している。

謝安側の桓沖陣営に対する

本音が見え隠れする。

 

100万と号する前秦苻堅の親征に対して、

謝安は帝都建康を中心とした揚州のみだけで

戦った。

淝水の戦いの勝利は、

東晋にとっては薄氷を踏むような勝利であったことがこれでわかる。

いや、本当はただのラッキーであった。

さて、383年の淝水の戦いにおいて、

前秦苻堅は自壊した。

前秦苻堅は国家としても崩壊し、

東晋にとっての脅威は去る。

 

●東晋の脅威が去ってから呆気なく謝安は政権を追われる。

 

脅威、外憂がなくなると、

内部闘争に力を注ぐ余裕が出てくる。

 

謝安は引き続き専権を振るうも、

これに不満を持つ勢力が現れる。

 

宗族の司馬道子である。

 

謝安は淝水の戦いを制した英雄として、

後世描かれる。

 

私も含めて大半の人たちは、

謝安の第一印象は良い。

 

しかし、よく考えてみてほしい。

 

後世、奢侈、腐敗した司馬道子に

政権を追われた謝安は本当にそこまでの

人物なのか。

 

淝水の戦いは、

前秦苻堅の自滅である。

桓温の死後、謝安にお鉢が回ってきたのは、

桓温の戦略的撤退のためである。

これを見事に桓沖が実行できたからである。

 

一方、

謝安は何をしたのか。

もちろん、貴族名族を代表して、

桓温に反発をした。

 

苻堅の侵攻に防戦体制を敷いた。

 

それは間違いない。

 

しかし、

それは、桓温の第三次北伐の足を引っ張るものであった。

苻堅の侵攻に際しては、

桓沖が荊州から送った精鋭の増援を断っている。

 

東晋の挙国体制を拒否しているのは、

謝安なのである。

 

私は、謝安に大した力などなく、

視野の狭いただの貴族だったと主張する。