2017-02-28から1日間の記事一覧
賈充は焦っていた。 不安に苛まれていた。 四つの理由がある。 ①賈充は曹爽一派であった。 →正始政変で曹爽一派は滅亡。 ②賈充は李豊の娘婿だった。 →李豊の変で、李豊は誅殺される。 ③賈充の父は法家だった。 →魏の厳しい法家を嫌い、儒家の寛容の政治を志…
255年に揚州諸軍事の毌丘倹が寿春で反乱を起こす。 この毌丘倹の反乱は、 本来当然のものである。 司馬師は霍光・梁冀・董卓と同じことをしたのだ。 司馬師の行為に対する、 毌丘倹の反対は本来当然のことである。 しかし、時代が変わりつつある。 皇帝廃替…
司馬師は李豊の変の後7ヶ月の逡巡の上、 皇帝曹芳を廃した。 これは非常に大きな歴史的転換点である。 司馬師は、 漢の三大悪人霍光・梁冀・董卓と同じ 皇帝の廃替を行なったにもかかわらず、 多数の名族の支持を受け成功させた。 霍光は霍去病の異母弟であ…
秦漢は、 典型的な農本社会であった。 大半が農民で、 農業を行う。 それを皇帝を中心とした 官僚機構が支える。 案外とフラットな組織だったのだ。 農民のトップが皇帝。 ただそれだけだったのだ。 当時は贅沢しようにも商経済が発展してないから、 何のし…
奇しくも、 東興での敗戦が、司馬師の 政治スタンスの表明になった。 諸将を罰せず、自己に責任があるとする。 これこそ儒家のスタイル。 周公旦の目指したスタイルだ。 これにより、名族の支持を得ることになる。 合わせて、旧勢力の反発を引き起こす。 そ…