歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

恵帝毒殺の犯人は後の懐帝司馬熾~①経緯から背景を知る~

恵帝を殺したのは、司馬越ではなく、司馬熾である。

 

その理由を、

経緯、出自、動機の三点から説明したい。

 

 今回は経緯について記す。

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まず経緯である。

 

【突如出現した司馬熾、後の懐帝】

 

この司馬熾という人物は、

突如この八王の乱の最中登場した。

 

八王の乱の主役の一人、

司馬顒が皇太弟として司馬熾を立てたことで初登場する。

 

経緯は下記である。

3048月、

皇太弟で成都王司馬穎は鄴を幽州の王浚・并州の司馬騰に攻撃され、

失陥した。

 

恵帝を奉じながら、惨めに洛陽に撤退、司馬顒方の張方に足元を見られ、

実権を失う。

張方は、30411月恵帝と司馬穎を連れて主君司馬顒のいる長安に撤退する。

 

司馬顒は実権を失った司馬穎を皇太弟から廃し、

同じく恵帝の弟である、司馬熾を後任の皇太弟とする。

30412月のことである。

 

司馬顒は司馬穎と手を結び、

八王の乱という権力争いを戦ってきた。

司馬穎がこの勢力のリーダーであった。

司馬穎は武帝司馬炎の子で、西晋の天命を受け継ぐことができる。

この大義名分は、大きい。

 

それで、主が司馬穎、従が司馬顒であった。

 

司馬顒は宗族であるが、司馬孚家を率いるに過ぎない。

 

司馬顒はこの時代において、武帝司馬炎の子という重要な大義名分を持つ、

司馬穎をここで明確に見限った。

 

立場が反転したのである。

 

代わって司馬顒が皇太弟にしたのが、

司馬熾なのである。

 

司馬穎は自力で皇太弟の座を獲得したが、

司馬熾が司馬顒の後援の元、皇太弟となったことは重要である。

 

八王の乱は月単位で状況が変わり、スピーディな展開すぎて、

これを見過ごしてしまう。

 

しかしこれは見過ごしてはならない重要な事実だ。

 

【司馬顒派の皇太弟としての司馬熾】

司馬熾は司馬顒派の皇太弟なのである。

皇太弟なった時点では、

司馬顒派の勢力は、長安のある関中と、中原、山東は司馬越派の勢力と

拮抗している。

 

その状態で、

司馬越は、3057月に挙兵する。

 

司馬越は苦戦しながらも、

3068月に

恵帝を洛陽に迎え入れ、

太傅・録尚書事として政権を掌握する。

 

この時に恵帝と共に司馬熾も洛陽に戻ってきている。

 

恵帝は八王の乱においては、権威の象徴で、実権はない。

実権を得るのは、

恵帝の世継ぎとなった者か、

恵帝の世継ぎを自身の傀儡として立てた最高権力者か、

である。

 

恵帝の世継ぎは、

武帝司馬炎の血筋に繋がるものしかなれない。

 

なので、例えば司馬冏政権の時は別に皇太子を立てるも、

司馬冏自身が最高権力者として振舞った。

 

司馬顒は、司馬越軍が関中に侵入し、

抗戦しているも、劣勢である。

恵帝と、傀儡世継ぎの司馬熾を失ったので、

権力の源泉を失ったことになる。

 

司馬越は、

恵帝という権威を手に入れた。

一方、司馬熾という司馬顒の権力の源を手に入れた。

 

【司馬越にとって不都合な司馬熾の存在】

 

だが、これまでの八王の乱の経緯からすると、

司馬越にとって、司馬熾は甚だ不都合である。

 

まず司馬越は世継ぎにはなれない。

司馬越は司馬馗家の長老として力を持っているのみである。

史書にはないが、

この時点で司馬越は、事実上の宗師である。

 

宗師として司馬氏一門を統率する立場にある。

だが、皇帝は受け継げない。

 

これは、西晋の正統性ロジックである。

武帝司馬炎の呪いに近いほど、戦乱を巻き起こしているが、

太祖司馬昭から、世祖司馬炎が受け継いだ天命は、

世祖武帝司馬炎の子しか受け継げないのである。

 

この原則は西晋において非常に重要なのである。

 

そのため、司馬越は権力の源泉としての恵帝の世継ぎが必要であった。

 

司馬越が政権を掌握した時点の世継ぎは、

皇太弟司馬熾である。

 

司馬熾は、司馬越の敵対者司馬顒によって擁立された。

 

司馬越にとって好ましいわけがない。

 

当然、司馬熾もそれを認識していた。

 

司馬熾の立場は非常に危ういものであった。

 

司馬熾はいつ皇太弟から外されてもおかしくない状況にあったのである。