歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

石虎、王莽型の皇位継承で、石勒を継ぐ。

石勒の晩年、力を抑えられた石虎。

石勒の死後、すぐに自身が石勒を後継すべく動く。

 

 

333年8月後趙皇帝石勒、崩御。

石虎は、すぐに

石勒の嫡子で太子で皇帝となった、

石弘を脅迫し、程遐、徐光を処刑。

 

両名とも石勒の輔弼の任にあったが、

石虎の権力を制限しようと石勒に献言していた。

彼らからすれば、

石勒後の安定のためだが、

石虎はそのような理屈が通じる相手ではない。

 

●魏王・丞相・九錫の石虎が禅譲を受けないその意味:

 

石虎は、

石虎の脅威に怯えた皇帝石弘から、

魏王、丞相、九錫を得る。

 

この三つが揃うことの意味は、

皇位禅譲の資格があるということである。

それぞれ、

皇帝以外の最高爵位の王、執権、皇帝と同じ特典を意味する。

これらを与えられた。

 

翌334年石弘は、石虎の威圧に耐えかね、禅譲を申し出る。

そもそも上記の三点を与えた時点で、

石弘は石虎に禅譲をしたいと

考えていたことになる。

が、石虎は断る。

その後、石虎は、皇帝石弘を廃位。

石弘を殺害する。

石虎の、石弘の血を残さないという確固たる意思であった。

また、石弘からの禅譲は、石虎のプライドが許さなかった。

 

石虎の時代における禅譲の例としては、

漢魏革命と魏晋革命がある。

それぞれ譲った(禅も譲も、ゆずるという意味である)のは、

後漢献帝、曹魏元帝であるが、それぞれ余生を全うしている。

石虎は禅譲では、石弘を抹殺できず、

石弘としても禅譲すれば、

命は助かると考えた。石虎はそれを許さなかったのである。

 

なお、

漢新革命は王莽が劉邦の霊から禅譲を受けたとしているので、

除外する。

 

●曹丕型ではなく、王莽型の禅譲を企図する石虎:

 

石虎は、摂政天王と称した。

中国における摂政とは、

周公旦、王莽のこと。

 

石虎は曹丕型の禅譲ではなく、

王莽型の禅譲を狙った。

 

王莽は上記でも言及したが、

前漢の平帝からの禅譲ではなく、

高祖劉邦の霊から禅譲の意志を受けたとしている。

 

石虎も、石勒からの意志という部分を

強調して後を継ぎたかったのだと思われる。

石虎は石勒の後継者としての自負は強かった。
●石勒と石虎の関係

 

 

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また、

時代の風潮というのもあると思うが、
当時は、魏晋を批判する考えが強かった。

後趙石勒は事実上西晋を滅ぼしていて、
その残党の東晋が、南でのさばっている。
後趙の敵対勢力の晋は、
魏の継承王朝なので、魏晋と一つにまとめられて批判される。

魏晋が成り立ったきっかけは、魏の曹丕である。
なので、曹丕型の禅譲である、

漢魏革命、魏晋革命は

否定されるというロジックである。

 

石虎および後趙は、

王莽が周公旦をベンチマークして、

自身への皇位継承の正統性を固めていったという事例に鑑み、

それに則っていくわけである。

 

石勒が劉曜から独立した後、

王莽時代の文書が発掘されたという話があり、

それに則って制度を整えるべしとなったという話がある。

 

本当にそのような文書が発掘されたかどうかはわからないが、

周公旦の時代の礼制と称して

後趙は制度整備を行った。

 

周公旦の時代の礼制というのは、

つまり、王莽禅譲前夜に著された「周礼」のことである。

 

「周礼」は周公旦が書き著したとされるが、

実態は

王莽のブレーン、劉歆(リュウキン)が前漢末に作成したものである。

 

こうした経緯から、

石虎の時代に摂政という表現が出てくる。

この辺りの礼制に関する研究は、

後趙では相当に進んでいたと思われる。

 

石勒自身も、晩年にようやく皇帝になっているところを見ると、

皇帝とは、天王とは、王とはということに関しては、

後趙において研究、理解を進めていた。

 

 

●「異民族は皇帝になれない」説

 

異民族は皇帝になれないという漢人の間の認識がある。

 

石勒、石虎ともにこれには

相当に配慮した。

彼らは異民族で、羯と歴史上では言われている。

私はソグド人だと考えている。

●石勒はソグド人か。

 

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石虎は、

摂政天王から、

337年大趙天王となった。皇帝ではない。

 

石勒は、328年に劉曜との洛陽決戦を制し、

329年に劉曜を処刑する。

この329年に、
石勒は天王についている。事実上の華北統一であったが、

それでもすぐにはならなかった。

翌330年に石勒は皇帝になるが、

相当に配慮した上での実行であった。



胡漢融合に腐心した石勒ならではである。

石虎もそれに習った。

石勒への尊崇からである。

 

石虎は、

337年に大趙天王となった時点で、

石虎は石勒を継ぐ存在となった。

 

天王は、皇帝ではないが、

天子である点では皇帝と同じである。

 

王莽は前漢平帝が崩御してから

二年空けて劉邦の霊から禅譲されて

皇帝についたので、

この部分も酷似している。

 

石虎は何としても石勒を後継した形にしたかった。

 

●周公旦の「輔弼」伝説

 

さらに石虎は、

周公旦の事績から、自身の後継の正当化を図る。

 

それは下記のような内容である。

 

周公旦は兄武王の死後、

その嫡子成王が幼いので、

摂政となった。

 

その後成王が長じて政権を返したという話である。

 

しかし、成王の立場の人が、

君子でなければ、理想の王道政治を敷いた周公旦は

後を継ぐというストーリーである。

これに則る。

 

これに類する話は、

劉備―諸葛亮の遺詔もそうだし、

簡文帝司馬昱―桓温間の遺詔もそうだ。

 

後継者が輔弼するに足るのであれば、支えてほしい、

それが難しいのなら自ら執れである。

これを口実に皇位を乗っ取る、

乗っ取ることができる、という、当時の思想である。

 

つまり、石勒の子石弘は、

輔弼に足らなかったので、石虎が

後を継いだということだ。

 

このようにして、

石虎は石勒の後継者として自身の正統性を構築し、

後を継いだ。

 

石虎は、

案外とただの猪武者ではないことがここからわかる。