歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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邯鄲⇔晋陽の高いアクセス性(上党を中心に東西にアクセス)

山西高原から太行山脈を抜けた先にあるのが邯鄲である。
 

山西高原には二つのエリアがある。

 

①山西高原のメインエリア

北は太原(晋陽)、南は安邑(戦国魏の最初の都)、
中央に絳や曲沃といった春秋晋の都があるエリア。
これが山西高原のメインエリアである。
 

②上党郡

①のエリアの山を隔てて東にある。
上党郡の東には太行山脈がそびえる。
 
太原は山西高原にあるが、
そこから南に山を越えていくと、
現在の長治市に着く。
ここも大きく見ると、山西高原に含まれる。
古くからの名前は、上党だ。
上党は山の上という意味。
この長治市から東に太行山脈を越えると、邯鄲にたどり着く。
現代では、このルートに高速鉄道が走っている。
 
前453年の三晋独立の際、上党を韓魏趙で分割した。
今の長治市は韓の領地。
この長治市までが韓の領地で、その北は魏の領地である。
さらにその北が趙の領地だ。
特に地政学的な境界線もない。
それぞれの城はそれぞれの王の所有となる。
 

「刑、信都、襄国、巨鹿」「鄴」「安陽・殷墟」「中山国・中山・石家荘」

 
現代のように、領土という面が領域という考え方ではない。
 
戦国趙は、中原などに様々な場所に城を所有していた。
その中でまとまった領域が、太原とその北にある代である。
太原から、南に南下し、長治市に行く途上で東に方向を変え、
太行山脈を越えると、現代でいう刑台市にたどり着く。
この都市は、河北から上党への途上にある要地だ。
 
刑国があった場所だが、趙が滅ぼした後、前372年に都を置いている。
信都と呼ぶ。あまり聞かない名前だが、後年襄国と呼ばれる。
巨鹿郡の一部である。
後漢光武帝の河北平定の根拠地であり、
黄巾の乱を扇動した太平道張角の本拠地であり、
石勒の後趙の都であった。
 
襄国の南が鄴、
鄴の南が安陽、すなわち殷墟である。
重要都市が太行山脈沿いに並び立つ。
 
匈奴の分派・羯族(羌渠種)は西晋成立後上党にいた。
羯族出身の石勒はここを拠点にして、
襄国・鄴を押さえ中原に攻め込む。
 
 
襄国、今の刑台市の北にある石家荘は戦国の中山国である。
趙の武霊王が滅ぼした。
 
上記①②に、この河北と呼ばれる、信都(襄国・刑)や鄴、安陽を含むエリアまでが、
春秋時代の晋の領域である。
後年、太行山脈以東は并州と呼ばれた。并州にはオルドス地方も含まれる。