歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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武帝司馬炎の過ちと勘違い=名族への対処=

=名族達が皇帝にしてやった武帝司馬炎=

=当時「皇帝」という地位は、大きく暴落していた=

 

265年12月に、

魏晋革命が成った。

魏元帝は司馬炎に禅譲を、

司馬炎は皇帝となる。

死後、武帝と諡号される。

 

しかしながらこの禅譲は名族の支持があってこそであった。

乱世を勝ち切っての禅譲ではない。

魏が悪政を行い尽くしての禅譲でもない。

 

ただ、名族達が魏の世を嫌い、司馬氏を押し上げただけなのだ。

 

名族側には司馬炎を皇帝にしてやったという気持ちがある。

 

そもそも、

もともと朋輩なのだ。

 

司馬懿も司馬師も司馬昭も、

皆同僚だったのだ。

 

名族にとってみたら、父の同僚、

もしくは自身の同僚というケースが多い。

 

例えば鍾会を例に取ると、

父鍾繇は魏の建国の元勲であり、司馬懿より格が上だ。

 

 

 

司馬師・司馬昭世代の名族当主が多い中、

司馬炎は息子世代に当たる。

 

小童を扱うような気分であろう。

 

また

皇帝としての威厳は、

賈充の曹髦弑逆で地に堕ちている。

 

魏皇帝曹髦は、司馬昭を自分自身で誅殺しようとする。

中護軍の賈充はそれを引き止める。

当然、中護軍というのは皇帝を守るための官職である。

当然、賈充は魏皇帝の家来である。

 

もう少しストレートに関係性を書く。

賈充は皇帝という人間の飼い犬なのである。

人間という飼い主の番犬であるべき飼い犬が、

飼い主を噛み殺したのである。

 

飼い主は特別な存在ではない、

それに皆気づいてしまった。

 

賈充が曹髦を衆目の前で弑逆した時点で

皇帝という位の価値は地に堕ちている。

 

同僚の息子で29歳の政治経験もない若造が、

皇帝などと称して、天命だなどと抜かしている。

 

これが当時の名族間にあった風潮である。

 

それにもかかわらず、

武帝司馬炎がまず行ったのは、

贅沢抑制(禅譲後三日目にして倹約の詔勅)

泰始律令の制定である。

 

これらは明らかに名族抑制。

すなわち、皇帝権の強化である。

 

西晋は名族の支持の元成立したのだ。

それを武帝司馬炎は理解できていない。

出足から武帝司馬炎は失策を行うわけである。

 

贅沢抑制は、本来の勝手にやらせて欲しいと考えている、

名族の行為を抑制するものである。

 

また法令整備は、皇帝権の強化である。

これは魏文帝曹丕、明帝曹叡の路線である。

皇帝親政を目指す両皇帝が、

魏律を確立して皇帝親政を確立した。

 

なぜ法律=皇帝権強化となるかと言うと、

本来法というのは明文化されなかったからだ。

明文化されず、それぞれの事案を担当官吏が担当官吏の

思想・思考で判断する。

それは、本来はノブレスオブリージュの世界で、

正しく判断すべしという考え方があった。

つまり、裁判権の移譲であり、

その裁判の仕方はそれぞれの官吏に完全委任されていた。

 

一方で法律を明文化、的確に整備するというのは、

その全権委任を止めるということになる。

皇帝および皇帝の親政組織が握ることになる。

 

そうなると、皇帝の親政、独裁につながるわけで、

本来皇帝はそれを志向する。

 

しかしながら、これは名族をはじめとした官吏層は嫌がるわけである。

前漢の武帝以来その対立が連綿と

続いてきた。

 

この司馬氏政権というのは名族によって支えられているものである。

 

魏の苛烈な政治を嫌って生まれた政権である。

魏の皇帝は、その成立の経緯から、

独裁親政を志向し、また業績評価がダイレクトであった。

実力主義すぎるのである。

 

魏の皇帝自体を名族が嫌がり、

当時の名族の代表格、司馬懿を支援して、

正始政変で権力を奪取。

それから16年かけて禅譲にこぎつけた。

 

にも関わらずの、

この武帝司馬炎の対処は、

武帝司馬炎自身が何か勘違いをしていたのだろう。

 

自分自身が何か大いなる天命の元に、

禅譲を成し遂げた。

 

父司馬昭が受けるはずの禅譲を、

父の急死により司馬炎が受けることになった。

 

何か運命的なものを感じても、

それ自体はやむを得ないのかもしれない。

 

しかしながら、この政策はあまりにも拙すぎた。

現状を知らなすぎる。

理想論すぎる。

 

名族の、目に見えない反発は確実にあった。

実際に贅沢抑制は全く効果がなく、

後に武帝司馬炎までも、贅沢合戦に参加するほど、

皇帝・宗族・貴族層は腐敗する。

 

西晋政権は名族に支えられて成立し、そして維持されている。

うまく行くわけがない。

 

初めから司馬炎は見誤っていた。

賈充の曹髦弑逆で地に堕ちたこと

 

 

組織化は事実上皇帝の権限を弱めることである