歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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263年魏の蜀漢討伐 第一段階

蜀漢討伐第一段階 


沓中への駐屯を確認した魏は、

蜀漢討伐を計画、実行に移す。

 

鍾会が長安に到着したのは、263年の9月のことである。

 

鄧艾は、都督隴右諸軍事なので、現地駐在、

諸葛緒は、雍州刺史なので、諸葛緒も現地駐在である。

 

鄧艾すら反対したこの蜀漢討伐。

 

賛成者は鍾会のみなので、

鍾会が蜀漢討伐の作戦立案者である。

 

上記青が魏、赤を漢(蜀漢)にしている。

魏は土徳の王朝なので、黄色とかの方が良さそうだが、

世間のイメージは青が多数と思われるので、青とする。

漢は、火徳である。

 

 

魏の攻め口から見てわかる通り、

漢中を攻める軍勢と、姜維を攻める軍勢で別れていることがわかる。

 

姜維と漢中を分断し、姜維をできれば撃滅し、

その間に漢中を制圧することが目的だ。

 

鄧艾が姜維を目標、鍾会が漢中を目標としている。

 

諸葛緒は、鄧艾指揮下で毌丘倹の乱で功績を挙げて、

雍州刺史になっている。

 

鄧艾と諸葛緒の連携は、密であることは想像に難くない。

 

鄧艾三万の軍勢がはまず目の前の姜維に攻めかかる。

諸葛緒三万の軍勢は、できるだけ早く進軍し、姜維の裏を取る。

諸葛緒はいわゆる搦手の役割だ。

 

鄧艾・諸葛緒が、姜維を撃滅できないにしても、

封じ込められれば、その間に、

鍾会本隊の10万の軍勢が、漢中を制圧してしまおうという

作戦である。

 

 

ここで姜維の凄さの一つを知る。

 

姜維は今まで自分から何度となく攻めかかってきた、

鄧艾が自分を攻めてきたら、

早々に撤退するのだ。

 

私は、これが姜維の凄さの一つだと主張する。

理由は二つある。

 

①まず一つ目は、

姜維の情報収集力の速さだ。

そもそも、姜維は魏が漢討伐軍を挙げると報告していたという

話もある。

沓中から漢中は、東京・京都間と同程度の距離がある。

江戸時代、早馬で駅にて馬を乗り換えに乗り換えて、

2、3日かかるとのことである。

徒歩で14日程度。

(関東地方整備局ホームページより。

www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index4/answer2.htm

 

 

あの、東海道をひた走るわけだ。

道が整備されていて、障害物もない、橋もかかっている状態で、

である。これに近い交通網、情報網を姜維は作っていた可能性がある。

 

それも、各方面に情報網を張り巡らせていた。

この時の姜維は、一週間以内でこの状況を把握していたのではないか。

魏軍の動きを含めて、姜維は広範囲に情報収集ができた。

 

それにしても、鄧艾が攻めてきたら、すぐに撤退するという判断が

できるのは凄い。

下手をしたら、

姜維は上記の図の通りに諸軍勢の動きすら把握していた可能性がある。

 

この蜀漢討伐はたった3ヶ月で魏の勝利に終わる。

 

凄まじい勢い、スピードで魏の軍勢が漢の領域を制圧しまくるのだ。

 

姜維が少しでも躊躇したら、

撤退できない。的確な情報把握が出来なければ、

的確な判断もできない。すなわち、正しい情報を多々持っていたわけである。

 

鄧艾は3万の軍勢で沓中の姜維に攻めかかったとされる。

姜維はこれと同程度の軍勢を持っていたと

考えられる。

理由はこれも二つある。

一つは、

そもそも前年262年に候和の戦いにで鄧艾と戦っていること。

鄧艾に近い軍勢を率いなければ、攻めかかることはそもそも

難しい。姜維は敗れたが、

成都における権力闘争に敗れた結果の北伐・候和の戦いだ。

姜維がそう簡単に軍勢を解散させたり、

蜀本土に兵士を帰還させることは考えられない。

そのまま軍勢を保持していた可能性が高い。

 

二つ目は、

鄧艾の姜維攻撃は、

姜維の足止めが第一目標である。

後ろを諸葛緒に取らせて、最終的には挟撃するのが作戦である。

鄧艾はまずは姜維を引きつけることが目的だ。

姜維よりも余りも多い軍勢は撤退を早めてしまい、

諸葛緒が後ろに回り込めなくなる。

諸葛緒の進軍ルートには、漢の武都郡があり、

関城があり、すぐには回り込めない。

 

鄧艾は姜維が戦えそうだと思えるぐらいの軍勢で

攻めかかる必要がある。

 

 

鄧艾が同程度の軍勢で攻めかかってきても、

姜維は引っかからなかった。

姜維は状況を把握していた。

だから撤退した。

 

②もう一つの姜維の凄さの理由は、

鄧艾にこだわらなかったことだ。

 

姜維は鄧艾が来てから、

苦汁を味わされている。

 

256年段谷の戦い、262年候和の戦いで

姜維は鄧艾に敗北。

 

258年の駱谷道口の戦いは、

司馬望を支えた鄧艾の適確な防御体制に

撤退を余儀なくされている。

 

姜維からしたら、

腹に据えかねる相手が鄧艾だ。

 

姜維自身、軍事に関しては自信もあったはずなので、

鄧艾のことを認めてもいたはずだ。

 

雌雄を決したい、鄧艾を打ち倒したいと思うのが

人情である。

 

その鄧艾が攻めかかって来ても、撤退するのである。

姜維は猪武者ではない。

 

戦いだけの人物ではなく、

本気で国家視点で北伐を考えていたことを伺わせる。

 

感情を抑制し、論理的に現実を判断しないとできないことだ。

 

歴史上の人物だから当然だろうなどと考えてはいけない。

所詮同じ人間なのだ。にも関わらず、

姜維は逃げたのだ。

 

姜維はまず陰平に逃げた。