歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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武帝司馬炎の、誰が天命を受けたのかの争いが八王の乱の遠因となる。

 

 

自分の血統にこだわる武帝司馬炎。 廟号からたどる。

 

〜天命を継ぐのは司馬昭家のみなのか。司馬懿家なのか。〜

〜司馬炎の天命の独占が、八王の乱を引き起こした。〜

 

武帝司馬炎は、

とことん自身の血統に拘った。

 

そう言われてみれば当然と言えば当然なのかもしれない。

 

しかしながら、

前漢では、傍流の血筋から、本流の皇帝を継ぐことはあった。

後漢も、例えば桓帝などは忘れ去られたぐらいの血統であったにもかかわらず、皇帝となった。

 

これらは創業期ではないからとも言える。

 

ここが西晋のややこしさなのだが、

西晋は、司馬懿の時に事実上の創業が成っているのである。

武帝司馬炎は、4代目、世代で考えると3代目なのである。

 

司馬懿からたどると、たくさんの血統が正統を主張してもおかしくない状況である。

武帝司馬炎自身には、何の功績もなく、ただそれまでの司馬懿・司馬師・司馬昭の

三代が御膳立てしたものをいただいただけである。

 

また、武帝司馬炎が自身の血統に拘らせる理由として、

司馬攸の存在がある。

 

司馬攸は、叔父司馬師の養子で、司馬昭の愛息で、

司馬炎の同母弟であった。

 

当然司馬師の後継者で、司馬昭はそういった経緯もあり、かつ

司馬昭は司馬攸を愛しており、

長らく司馬昭は司馬炎ではなく司馬攸を後継者にしたかったほどだ。

 

武帝司馬炎治世後半には、

皇太子の司馬衷(後に恵帝となる)ではなく、

輿論は司馬攸を後継者にという考えが強かった。

 

武帝司馬炎にとって非常に残念で屈辱的なことであるが、

武帝司馬炎が絶対なのではないということだ。

 

この西晋という王朝は、武帝司馬炎が創業者なのだが、

武帝司馬炎という存在が絶対ではなく、存在が軽いので、

弟を後継者にしてはどうかという発想が生まれる。

 

建前と実態が異なる。

これは武帝司馬炎にとっては、自分自身でもわかるだけに、

屈辱的で腹立たしいことであろう。

 

輿論が沸騰すればするほど、

武帝司馬炎は自身の血統に拘った。

武帝司馬炎の血統のみが皇帝となる。

 

それを明確にする。

それが現れたのが、廟号である。

 

天子七廟といわれるように、

天子は7代の祖先を祀る。

宗廟において、祖先を祀るのだが、

その際に祖先に対して、呼称を選ぶ。

 

諡号は、子孫の先代に対する評価があるので、

不孝である、そのために廟号を重視するようになったという話が

唐で起きるが、これは正しくはない。

実際には、

唐の時代、唐太宗李世民の諡号を、

本来「武」にするところを、「文」にしてしまった。

 

後継者の高宗の時代に、途中でその間違えに気付いたが、

それを表立って間違えましたというわけにはいかない。

 

そこで、「武」を交えた、長ったらしい諡号をつけることで

ごまかした。

それにより、廟号の重要性が相対的に高まっただけである。

 

廟号に子孫の評価はある。

例えば唐の李世民は、前漢文帝と同じ、「太宗」である。

 

前漢文帝は、本来異母弟で嫡男の恵帝が本流なのに、

呂后専横などがあり、恵帝の血統が絶えた。

それでゆえあって、皇統を継いだのだが、

それ以後は全て文帝の血統となる。

 

ここが本流だということで、

「太宗」という廟号にしたのである。

 

前漢創業者の劉邦は、高祖と呼ばれるが、

本当は、太祖高皇帝である。

すなわち太祖である。

「太」は、始まりの意味である。

「祖」は、家系を開いた人の意味である。

 

「宗」は、本家とか、大元の意味である。

 

だからこそ、後に中華では太祖は王朝の創業者、

太宗はその二代目の廟号となる。

 

清朝の二代目皇帝ホンタイジはそういう意味では分かりやすい。

初代太祖ヌルハチから指名されて後を継いでいるが、

ホンタイジのほかにたくさんの子がいたのである。

その中からヌルハチはホンタイジを選んだ。

 

ホンタイジを継ぐ者たちとすれば、

ホンタイジこそが本家で、ほかのヌルハチの子供は分家であると主張したい。

それがこの太宗という廟号に現れる。

 

前漢文帝は、本来継ぐはずのない、劉邦の子供であったからこそ、

ほかにもライバルがいたからこそ、太宗という廟号になった。

 

唐太宗は、玄武門の変で有名なように、

後継者になった経緯に疑義がある。

だからこそ太宗という呼び名は格好のネーミングである。

 

こうした政治的背景は西晋にもある。

それを説明したい。

 

 まず、

武帝司馬炎の廟号は「世祖」である。

これは、後漢光武帝の廟号と同じである。

 

「世」は時代という意味である。

 

世祖はすなわち時代の始まりという意味である。

 

周知の通り、後漢光武帝は、

中興の祖であり、司馬炎が光武帝に準えられたというのは

大きな意味を持つ。

 

西晋創業の皇帝とはいえ、

中興の祖であるということだ。

本来王朝の創業者が贈られるべき、太祖ではないということである。

 

武帝司馬炎が自身の廟号に関して、

何か遺言を残したかどうかはわからないが、

武帝司馬炎崩御後の輿論は、彼を「世祖」だったと認めたということである。

少なくとも「世祖」としても、武帝司馬炎に呪われることはないと

判断したことになる。であるからには、武帝司馬炎も

ある程度はそういう意識があったことになる。

 

尚、世宗となると、これは前漢武帝の廟号である。

「祖」は何かの創業者であるので、前漢武帝には

付けられない。

そのため、前漢文帝の太宗に対して、

前漢武帝は、世宗となる。

 

前漢世宗武帝→後漢世祖光武帝→西晋世祖司馬炎と

流れがある。

武をもって四夷を平らげ、新しい世を作ったということである。

 

西晋における世宗は、

司馬師である。

毌丘倹の乱などを鎮圧し、事実上の司馬氏時代の幕を開けた人物である。

正始政変を実際に企画立案、実行したのは司馬師と言われることもあり、

創業者の側面もある。

二代目ではあるが、太宗ではない。

時代の始まりを創った人物だが、

本家ではない、大元ではないということだ。

 

では、司馬懿の廟号は何か。太祖なのであろうか。

実際には「高祖」である。

これは非常に「微妙」な廟号である。

 

前漢の創業者である劉邦は、

通常高祖と呼ばれるがこれは実は本来の呼称ではない。

 

前漢の劉邦は、

廟号太祖、諡号高皇帝で、

慣例として高祖と呼ばれている。

 

そのため、正しくは、

劉邦=高祖ではない。

 

では西晋時代から見ると、

正しく高祖という廟号の皇帝はいるのか。

 

一人いて、それは魏の文帝曹丕である。

 

父曹操は、太祖武帝という廟号・諡号を持つ。

曹丕は曹操を立てた。

全ての大元であり、四夷を平らげ天下を治めたという

称号を父に贈ったのである。

 

曹丕は、後漢からの禅譲実現者であり、

魏の建国者だが、父に最上の称号を贈ったからには、

自身は二番手以下の称号に甘んじることになる。

 

これは、私が曹丕を評価し、後継者問題で色々あったにも関わらず、

孝子であると考える理由の一つである。

 

曹丕は王朝の創業者であるにも関わらず、

事実上の創業者である父に最上の称号を譲ったが、

とはいえ王朝の創業者は曹丕である。

 

ここで曹丕の称号をどうするかという問題が起きた。

 

この当時の視点で考えると、

「太宗」はおかしい。

 

太宗は、本来嫡流ではない前漢文帝が皇位を継いだから、

太宗なのである。

後継者争いがあった曹丕にとって、

わざわざ自分自身が正統ではないと言いに行くようなものだ。

 

曹丕と曹操の後継者を争った曹植は確かに曹丕の同母弟であるが、

曹丕の方が年上である。

順当に考えれば、曹丕が後を継ぐのは正常である。

 

そこで考え付いたのが、

高祖だったのではないか。

太祖ではないが、

劉邦の慣例表現になっていた高祖を廟号化する。

 

太祖ではないが、

太祖に準ずる廟号、それが高祖だと。

 

余談だが、

太祖>高祖と考えると、

唐の創業者李淵が高祖なのは興味深い。

 

その後の北宋以降は、基本的に王朝の創業者は太祖である。

 

少々話がずれたが、

西晋において、司馬懿は高祖であり、

太祖ではないのは非常に重要である。

 

太祖に準ずるが太祖にではないのが高祖である。

 

廟号で最上位に位置する、

家系の開いた始まりの人は一体誰なのか、と言えば、

西晋においては司馬昭が太祖なのである。

 

太祖というのは、

基本的に天命が下った人物である。

そうしてその人物に下った天命を子孫が継ぐ。

 

前漢の哀帝の事績だが、

戯れに、皇位を寵臣に禅譲しようかといったところ、

天下は陛下の天下ならず、天下の天下である。

高皇帝、すなわり劉邦に下った天命をただ、子孫である陛下が

継いでいるだけである、と言われた話を思い出す。

 

逆に言えば、

天命が下った太祖の子孫のみが、天命を継ぐ。

すなわち天子、皇帝足りうるということである。

 

これは西晋王朝にとって非常に重要な意味を持つ。

理屈からすれば、

太祖は司馬懿ではないから、天命が下ったのが司馬懿ではないから、

司馬師の養子司馬攸は西晋の皇位を継げない。

 

司馬懿の弟たちの家、

すなわち司馬八達と称されたものたちの子孫は、

皇位を主張できない。

 

太祖司馬昭の叔父に過ぎず、天命とは関係ない。

劉邦の叔父を誰も知らないのと同じである。

 

また、司馬昭の兄弟も主張できない。

 

それはやはり劉邦の兄弟、

曹操の兄弟が、天命を継ぐ者として主張できないのと同様である。