歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

匈奴の単于に劉氏を認めたのは誰か?=⑤劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=

 

劉氏を名乗る、これはそう簡単にできることではない。

何故なら、劉氏のみ皇帝になれるという考えが蜀漢が滅びるまであったからだ。

下記二つの記事を参照していただきたい。

 

 

 

www.rekishinoshinzui.com 

www.rekishinoshinzui.com

●劉の姓は誰がくれたのか。

 

さて、劉豹が劉氏にを名乗ったタイミングについて補足したい。

 

私は、これは西晋でも、魏でもなく、

後漢期に名乗ることになったと考える。

 

 

劉氏は当然のことながら、

漢王朝の皇帝の姓である。

 

繰り返すが、

当時は劉氏の者しか皇帝になれないという

考えがあった。

 

それを前提とした考えは曹操幕下にも多く、

曹操は慎重に配慮した。結果として、

曹操自身は魏王に留まり寿命を迎え、

禅譲という歴史の大手術は曹丕に委ねた。

 

劉備は劉氏にであるからこそ、

皇帝を瑞兆に由来して皇帝を名乗れる。

それは光武帝も同様だったからだ。

 

劉氏としての特権である。

 

ということで、

劉豹ー劉宣ー劉淵が劉氏を

名乗ったと言うけれども、

そう事は簡単ではない。

 

●曹魏が劉氏を与えたのか。

 

例えば、魏が劉氏という姓を与えたのであれば、

それは劉氏の復興にも見える。

 

魏は、厳正な法治国家で、

ハードマネジメントがスタイルである。

 

そのような寛容なことをする王朝ではない。

 

●西晋司馬氏が劉氏を与えたのか。

 

西晋であればどうか。

司馬昭は、蜀漢を滅ぼし、禅譲のきっかけをつかんだ。

それは蜀漢が漢王朝を継ぐ存在だったからである。

 

皇帝劉禅を降伏させ、その天命は司馬昭が預かったという

ストーリーである。

 

 

また司馬昭は魏のハードマネジメントを嫌った当時の

風潮から、魏とは逆のことを行なった。

全体的に寛容に接していた。

法治国家の魏ではなく、徳治国家を志向していた。

 

 

それは、漢王朝のあり方であり、

劉禅とスタイルが同様であった。

 

 

www.rekishinoshinzui.com

 

 

 

劉禅は暗愚とされるが、それは全くの嘘である。

彼は法治国家と徳治国家を両立させることで、

在位40年間、劣勢の蜀漢を存続させていた。

 

 

www.rekishinoshinzui.com

 

だからこそ劉禅は司馬昭のやりたいことがわかっていた。

自分自身と司馬昭の立ち位置が被っていることがわかっていた。

 

だからこそ、劉禅は司馬昭に配慮して

暗愚な元皇帝として振舞った。

 

このように西晋にとっても劉氏という存在は

非常にセンシティブなのである。

 

西晋は劉氏を配下に置いて、西晋の正統性アピールに使った。

だが、

西晋のアンチテーゼになる漢や劉氏の扱いには、

相当に注意を払っていた。

 

そんな中わざわざ匈奴単于に劉氏を与えることで劉氏を増やし、

将来の火種になるようなことを

西晋がするとは思えない。

 

西晋というより、このような政策ができるのは

武帝司馬炎のみである。

司馬炎は司馬氏の中でも自身を正統として、

それ以外の宗族を皇帝になる、天子になる、天命を受けるという

権利から完全に排除した人物だ。

 

司馬炎には、匈奴に劉氏を与えるなど動機が全くない。

 

 

●匈奴に劉氏を与えるメリットのある人物とは

 

となれば、

後漢しかない。

 

そもそもに立ち戻る。

 

劉豹が名を挙げたのは

後漢献帝を助けたからである。

 

私はここで献帝が独断で、

劉の姓を劉豹に与えたのだと私は考える。

皇帝なので独断でいいのだが、曹操の傀儡なので、

こういった言い方になる。

 

これは南明の隆武帝が鄭成功に

皇帝の姓「朱」を与えたのと同様のことだと考える。

鄭成功は朱姓を与えられたことにより国姓爺と呼ばれる。

その実は、隆武帝が鄭成功の軍事力を期待したからであった。

 

姓ではなく、名前だが、

唐末に全忠という名前を与えられた朱全忠と同様である。

 

懐柔するために、

姓や名を与える。

 

曹操の傀儡皇帝として

完全に孤立していた後漢献帝が匈奴の支援を頼りにして、

劉氏とという姓を与えたと私は考える。

 

当時献帝に与えられるものなど

そのぐらいしかなかった。

 

また、親漢の系譜を継ぐ劉豹にとっても、

これは有難い事であった。兄の羌渠は、身内に殺されるまで、後漢に協力した人物だ。

 

それは、北魏の拓跋氏が自身で元氏としたのと同じである。

漢化したのである。

異民族が漢人風の姓を名乗る事は今後も続いていく。

例えば、

隋帝室の楊氏は、元の姓は普六茹であり、鮮卑姓である。

 

匈奴の劉豹が後漢皇帝献帝に認められたという事実は、

大きな意味を持つ。

 

中華においては、

親中華の異民族の代表格となる。

 

中華王朝の力が強ければ、その後援を持って、

匈奴本国を牛耳ることができる。

 

この権威は大きい。

魏や西晋の力が伸長していけばいくほど、

魏や西晋の後援を受けた、劉豹の系統が匈奴内で力を握り、

その結果、匈奴を乗っ取ったのだと

私は考える。

 

余談だが、これが中華王朝の周辺異民族統治の

典型的なパターンで、

同時期の倭も中華王朝から王として封じられ、

中華の権威と後援で諸勢力を支配していた。

 

<おわり>

 

参考図書: 

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

 

 

西晉の武帝 司馬炎 (中国歴史人物選)

西晉の武帝 司馬炎 (中国歴史人物選)

 
中国史〈2〉―三国~唐 (世界歴史大系)

中国史〈2〉―三国~唐 (世界歴史大系)

  • 作者: 松丸道雄,斯波義信,浜下武志,池田温,神田信夫
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 1996/08/01
  • メディア: 単行本
  • クリック: 1回
  • この商品を含むブログを見る