重耳を支えた7名の側近、孤偃と趙衰だけは別格である。
晋文公重耳を支えた中心人物は孤偃と趙衰である。
重耳の19年に渡る流浪生活を支えた忠臣として
下記の7名が挙げられる。
孤偃(こえん)
孤毛(こもう)
趙衰(ちょうし)
先軫(せんしん)
胥臣(しょしん)
介子推(かいしすい)
魏犨(ぎしゅう)
顛頡(てんけつ)
であるが、関係性を見れば誰が中心人物かわかる。
●狐偃は重耳の母方の叔父。一族は重耳最大のスポンサー。
孤偃は重耳の母方の叔父である。
孤毛は孤偃の弟。重耳の母方の叔父。
そして、孤偃、孤毛の父孤突は重耳の最大のスポンサーである。
孤偃、孤毛の父孤突は、狄の出身である。
狄の一部族で、
太原の西の呂梁山に拠点があった。
晋の献公の時代に晋に帰順した。
献公に娘を嫁がせそして子をなすほどだから、それなりの勢力を持っていたはずだ。
その子が重耳である。
政変が起きた後も、孤突は一貫して重耳に息子たちをつける。
重耳の初めの亡命先は狄である。狄というのは色々な意味合いがある。
北側の異民族全体だったり、白狄という国としてみなしたり、
狄というある部族を指したりする。
が、今回の場合は、孤突の率いる狄という部族の意味であろう。
重耳の初めの亡命先も狄だ。
重耳自身の最大のスポンサーが孤突の狄なのである。
孤突は重耳の甥で、恵公の子懐公に、
重耳から息子たちを引き離し、孤偃、孤毛を帰国させるように脅迫される。
孤突は断固として拒否し、処刑される。
これが重耳帰国の前年、前637年の話である。
重耳亡命の19年中、18年は息子二人を重耳につけながら、
晋に居続けたことになるから、その力は推して知るべしである。
重耳の弟恵公は、孤突に手を出したくても出せなかった。
懐公は、史実上重耳帰国の前年ということもあり、
かなり切羽詰まった状況だっただろう。
孤突を脅すことしかできなかった。
孤突を処刑して、政治的にも感情的にも
重耳たちにとって利のある方へ傾いていった。
●趙衰は重耳の寵臣で参謀、二重の婚姻関係。最も相性が良かった。
趙衰は、主君重耳と二重の姻戚関係がある。
重耳にとって趙衰は義理の弟であり、息子である。
まず趙衰は重耳の義弟である。
重耳ら初めの亡命先、狄で叔隗を重耳が娶り、
その妹季隗を趙衰が娶った。
これで趙衰は主君重耳と義理の兄弟となった。
趙衰と季隗の間の子が、後の晋正卿趙盾である。
更に、前636年、重耳が晋に帰国し、文公となった際、
重耳は娘を趙衰に降嫁させている。
つまり、趙衰は重耳の婿、義理の息子である。
娘は趙姫と言われる。
子に趙同らがいる。後に趙家の後継者争いに関して、
趙盾系と争いを繰り広げることとなる。
重耳がどれほどに趙衰を信頼していたかがわかる。
孤偃と趙衰が重耳の側近だが、
孤偃は果断な印象に対して、趙衰はソフトで知恵者の印象がある。
重耳が衛で地元の農民に食べ物を求めた。
しかし差し出されたのは土くれ。重耳は激怒するが、
趙衰は、土を出されたということは、土地を得たということなので、
拝して受けましょうと切り返す。
楚では礼をあまり知らない重耳をサポートするなど、
趙衰には、教養を感じる。
このように重耳にとても愛された臣下だが、
荒々しい孤偃、孤毛兄弟と諍いは起きない。
●狐毛・魏犨・顛頡・胥臣の4名について。
さて、この両名が中心なのは、このように明白である。
ほかの五人について言及する。
・狐毛
まず孤毛は孤偃の弟、孤突の子であり、重耳の叔父である。
なので、孤偃の陰に隠れてしまう。
先軫は後の中軍の将であるが、引き上げたのは孤偃である。
仕官した先は孤偃である。重耳が狄に亡命しているときであった。
孤偃が先軫を認め推薦したため、重耳直属となった。
・魏犨
魏犨は、文公の車右である。
公の車右というのは、戦時に公の右手に立って、
戦う者である。公の最後の砦であり、いざとなれば身を挺して主君を守る。
また逆に裏切れば、すぐに主君を拘束、殺害することも可能だ。
なので、最も武勇に優れた忠義者を選ぶ必要がある。
それが魏犨であった。
後の戦国魏の祖先であるが、
魏犨は腕っぷしを買われて重耳に引き上げられたのである。
・顛頡
顛頡はこの魏犨と仲が良かった。
曹では、魏犨とともに軍紀を犯し、曹の卿の家を焼いてしまう。
魏犨は言い逃れができたが、顛頡の罪は明確であったので、
軍法違反で処刑された。
魏犨、顛頡の二名が重耳側近の武を代表するのだろう。
武と言っても、戦略ではなく、武勇のことである。
・胥臣
胥臣は、重耳の教育係である。
胥臣は重耳より長生きしている。
重耳は前696年生まれ、前628年没。享年68歳。
胥臣は生まれはわからず、前622年没である。
なので、教育係と言っても、父子ほど年は離れていなかっただろう。
少し年上の兄替わりぐらいの関係ではないだろうか。
胥臣は、重耳の帰国後、法を司る司空に就いているので、
法の専門家であったのではないか。
法の部分の教育を施したと思われる。
また教育思想もまとめているので、知を体系立てた人物と思われる。
重耳の19年の流浪に付き従った。
●重耳7名の側近その序列
ということで、重耳の側近では、
孤偃が圧倒的一番手であり、
重耳も頭が上がらない部分もあった。
孤毛はこれに続く。
趙衰が重耳の一番の寵臣であり、参謀である。
胥臣は教育係として忠義一筋である。
先軫の軍略は重耳の帰国後の前632年城濮の戦いで
遺憾なく発揮されるが、流浪の時期は末端の扱いだ。
魏犨、顛頡はいわば用心棒である。
●問題は介子推である。
問題は、介子推の話だ。
彼のエピソードは心を打つが、史記が初出だ。
重耳に19年付き従うが、前636年の重耳帰国時の論功行賞から
漏れた。
介子推は、重耳の帰国は重耳自身の天命と考え、
功を訴えることをせず、潔く山に帰った。
という話である。
これをそのまま信じることができるだろうか。
これは史記の話である。
史記は前漢武帝の中華天下統一の正統性を主張する書物である。
君主に天命あり、とは重耳に仮託して武帝の正統性主張にしていると私は考える。
重耳は狄のハーフである。
晋自体も狄にルーツを持つ可能性が高い。
文公に中華典礼の知識はなく、趙衰の補佐がなければ、
楚で恥をかくところだった。
相当に弱肉強食の文化を持つ重耳一行で、
このような美談が在り得るのだろうか。
私は介子推の話は後世の作り話と主張する。
残念だが、介子推の話はでっち上げで、
重耳の下にはこのような人物はいなかったのではないか。
重耳一行の中で彼だけが違和感がある。
武に秀でた儒教的価値観の持ち主など、
この狄丸出しの重耳一行の中でいるわけがないのだ。
重耳の流浪に付き従った7人の人物。
彼らの序列は明確で、介子推はフィクションの可能性が高い。