歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋元帝司馬睿④司馬越派として江南にやってきた。

東晋の成立は、

318年3月の司馬睿の皇帝即位である。

311年6月に匈奴漢が洛陽を陥落させ、

西晋皇帝懐帝を拉致してから、

約7年後である。

 

 

その大半の期間、西晋皇帝は存在したが、王朝としての体を成していなかった。

 

司馬睿が318年3月に皇帝に即位したことで、

王朝としての形が戻った。

 

後世の史書は、司馬睿の賢察さなどを出して、

皇帝に即位すべき存在だったと書く。だがそれは怪しい。

司馬睿には大した事績もない。

 

しかし、そのような司馬睿を史書は潤色する。

司馬睿は皇帝に成るべくして成ったのだとして、

能力や業績を脚色するのである。

 

それはなぜか。

 

皇帝に大した事績もない人間がなっては

後世の皇帝が困るのである。

ましてや西晋は漢人の正統王朝でもある。

 

 

●司馬睿に西晋皇帝を主張できる資格はない。

 

当時、

司馬睿はただの一勢力に過ぎなかった。

No. 1の勢力でもなく、

最も正統な血筋というわけでもなかった。

311年6月に西晋の帝都洛陽が劉曜に陥されてから、

約7年間、晋は事実上各自バラバラの動きを取っていた。

318年に至り、

西晋最後の皇帝愍帝は匈奴漢皇帝劉聡により処刑。

 

この時点で、

晋として匈奴漢に抗争していたのは、

5プレイヤーいた。

 

建業の司馬睿、

荊州の陶侃、

幽州の劉琨、

涼州上邽(じょうけい。今の天水)の司馬保、

涼州姑臧(こぞう)の張寔(ちょうしょく)
である。

 

司馬睿は地方に割拠する西晋勢力の一つに過ぎなかった。

 

●司馬睿よりも西晋皇帝を主張できるのは司馬保。

 

一方、天水にいた、司馬保は違った。

彼には、西晋皇帝の座を主張してもよい、正統性があった。

 

西晋皇帝愍帝の側に仕えていた。

愍帝は長安に本拠を置いていた。

宗族としても、

西晋最後の最高権力者司馬越の甥であり、

司馬越の後継としての主張もできた。

 

長安から見て東に黄河を渡った先の

平陽の都を置いていた匈奴漢の劉聡と戦っていた。

これを輔弼したのは司馬保である。

本来なら、

匈奴漢本隊の攻撃を受け続ける中、

よく晋皇帝を輔弼したというところであろう。

 

●司馬保は司馬睿が皇帝になったから、後世から悪く書かれるしかない。


しかし、

司馬保の評価は非常に難しい。

史書では司馬保の評価は散々だ。

理由は二つある。

 

まず一つ目は、

司馬保は司馬睿の皇帝即位を認めなかった。

つまり正統の継承を認めなかったから、悪く描くほかない。

 

二つ目はそもそも、西晋の滅亡を迎えた時の相国であることだ。

正統王朝を滅ぼさせてしまった当事者は

これもまた悪く描くほかない。

 

司馬保は史書に散々悪く書かれている。

百貫デブというのが最も酷いものだろう。

意志薄弱だというのもある。

 

一方で、

事実として司馬保はどれだけ匈奴漢と
戦い得たのだろうか。

296年生まれで、

年も若いので、

どの程度力があったのかはわからない。

 

315年に司馬保は相国になっていたが、

どの程度相国らしい動きが取れたはよくわからない。

 

しかし、

戦場には赴かないまでも、

常に匈奴漢の脅威に晒されてきた長安にいた。

そして、この西晋残党が集まった、

愍帝の政権のNo.2であることは事実である。

愍帝が囚われた後も、

数年上邽に存在したことも事実である。

攻め込まれなかっただけかもしれないが。

 

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●西晋皇帝の継承を主張できるのは司馬炎の血を継ぐ者のみ。

 

 

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そもそも西晋というのは、

司馬炎の血を

受け継いだものではないと後を継げない。

 

しかし、愍帝が処刑され、

司馬炎の血筋が絶えた今、

誰か宗族の者が継ぐ他ない。

この点で正統性が高いのは司馬保であった。

 

司馬保は、

司馬越の四弟司馬模の子である。

西晋最後の最高権力者で、

司馬越は丞相任官・九錫付与にまで到達していた。

その司馬越の甥である。

 

司馬越は、

司馬懿の弟で、

司馬八達の一人司馬馗家の一員である。

司馬睿はずっとその司馬越に従ってきた。

 

司馬越は西晋皇帝の宗族家の一つ、司馬馗家の当主である。

それに司馬睿は従ってきたということは、

司馬馗家の血族からすれば、司馬睿は、

司馬馗家の使用人と見なされていてのおかしなことではない。

 

 

司馬保はその司馬越家の人間なのだから、

格は司馬保の方が上なのである。

 

にも関わらず、

司馬睿は皇帝に即位した。

主筋といっても良い、司馬保を差し置いてなのである。


力も権威も微妙な司馬睿。

無理をして皇帝になったのだから、

その後の混乱は想像に難くない。

 

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●微妙な司馬睿が東晋の元帝となるまで。

 

司馬睿は王導とともに、

司馬越の指示を受けて、江南は建業に至る。

307年のことである。

ここで顧栄らに迎え入れられる。

 

顧栄は、

越王勾践の末裔で、

孫呉で最も長く丞相を務めた顧雍の孫にあたる。

 

いわば、江南、呉という大きな単位で

それを代表し得る存在、

土地の長老、それが顧栄である。

 

ここに至るまでについて少し記す必要がある。

 

華北で八王の乱が続く中、

江南も無縁ではなかった。

まず、荊州で起きた、張昌の乱の影響を受ける。

 

303年に張昌の乱が荊州で起きる。

張昌は江南に石冰を派遣。

江南を支配する。

翌304年に陳敏が石冰の反乱を鎮圧する。

この陳敏がそのまま江南に駐屯し、

江南を支配する。

陳敏は自立を企て始める。

 

305年12月には陳敏は詔を偽造し、

楚公、大司馬、九錫を受ける。

この三つを持つということは、

皇帝になる資格があることを示している。

 

当然、西晋としては、

陳敏にこのようなことをした覚えはない。

 

307年、

時の最高権力者で八王の乱の勝者、

司馬越が

陳敏の専横を明確に認識。

司馬越政権から、当時陳敏に協力をしていた、

江南土着勢力の顧栄らに陳敏に対する反乱を促す。

既に陳敏に協力をしたことを後悔し始めていた、

顧栄らは陳敏に対し挙兵。

陳敏を敗死させる。

 

このような経緯があったのちに、

江南にやってきたのが司馬睿と王導なのである。

 

司馬越が西晋の中枢を押さえた。

乱れた江南に対して降伏勧告、帰順勧告を

行った。

それで顧栄が反応し、帰順。

それでやってきたのが、司馬睿である。

 

この点からも明確に、司馬睿が江南に赴いたのは、

王導の献言でも何でもない。

司馬越の指示である。

 

八王の乱の勝者、司馬越派として、

江南に進駐してきたのが、

司馬睿と王導なのである。