歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬懿は実は曹真と姻戚であった。

曹真の妹=

夏侯尚の正妻。(夏侯尚はこの曹真の妹ではなく、妾を寵愛したため、曹丕にこの妾を殺された。)

 

その娘夏侯徽=司馬師のはじめの妻

曹真の姪の夫=司馬師。

夏侯徽の兄夏侯玄=司馬師の義理の兄。

夏侯玄・夏侯徽の叔父=曹真

夏侯徽の義理の叔父=司馬懿

 

司馬懿が生きている間は、

夏侯玄は配慮されている。

曹爽一派だったのに。

夏侯玄からすると、曹爽は従兄弟になる。

曹真は叔父甥の関係。

 

この、曹真と司馬懿を繋ぐ、夏侯徽は

史実上毒殺されたことになっている。

実行犯は司馬師とのこと。

 

しかし、

少なくとも、当時夏侯徽を毒殺したという

のは公にはなっていない可能性が高い。

 

二つ理由がある。

 

夏侯徽の死去は234年。

夏侯徽は魏の宗族であり、当時の皇帝魏明帝曹叡への反逆と

捉えられてもおかしくない。そのようなことがあったら、

司馬懿に後を託すなどと言うことがありえるはずがない。

 

249年の高平陵の変(正始の変)後、

「魏略」に下記のような話がある。

 

司馬懿が252年に死去すると夏侯玄の友人の許允は安心した。

しかし夏侯玄は許允に反論する。

「なんて見通しが甘いのだ。司馬懿は政変後、私を以前から付き合いのある家のものとして変わらず遇してくれた。しかし、子元(司馬師)・子上(司馬昭)達が

我々に対して遠慮をするわけがない。」

その後、夏侯玄は李豊の変に連座するが、それまで特に動かなかった。

妹の毒殺の話があれば、このようにはいかない。

 

夏侯徽の死後、呉質の娘を娶る。

しかし、権勢がないとして離縁。

これも少なくとも男子が産まれない、

子が産まれないから、ぐらいの理由を当時はつけていたのではないか。

さすがにこのようなストレートな理由を公にするとは

思えない。

 

その後、羊徽瑜を娶る。

羊祜の姉。羊祜は同母弟になる。

母は後漢末の文人蔡邕の娘。

 

泰山周辺に勢力を持つ名族、泰山羊氏。

 

司馬懿は、

魏の宗族との関係よりも、

名族との連携に舵を切る。