歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

司馬昭は何故征蜀を思い至ったか。=禅譲のみが唯一の救い=

賈充の曹髦弑逆(260年)で、司馬昭は禅譲への道を歩まざるを得なくなった。

分かりやすい実績を挙げることが必要となった。

そこで挙がったのが、蜀漢の討滅である。

 

 

司馬昭は兄司馬師の死で、突如司馬氏を

担うこととなった。

 

司馬昭は誰とでも広く付き合えるタイプであった。

兄とも仲は良かった。

 

しかし正始政変のような一大事には関与していない。

失敗した時の血のスペアだろうか。

 

興勢の役の時は、司馬昭が従軍している。

もしも征蜀がうまくいったときのリスクヘッジか。

 

何れにしても、

司馬昭はそのような役回りであった。

 

興勢の役では撤退の進言をするなど、

決して凡人ではなく、司馬懿の子に相応しい振る舞いだった。

ただ、司馬懿や司馬師のように、

鋭い知性を感じない人である。

 

鋭利な刃物のような鋭敏さを感じない代わりに、

おおらかさを感じる。

 

賈充を諸葛誕のところに遣わして様子を窺わせたり、

曹髦弑逆の際には陳泰に解決策を泣きついたりと、

人間らしさ、人の良さを感じる。

 

諸葛誕の乱は賈充の陰謀と私は考えるので、

実は司馬昭が主体的積極的に計画、実行したのは、この征蜀のみである。

 

なぜここに至ったか。

 

 

◎曹髦弑逆(260年)で、賈充を罰することができなかった、いやしなかったことで、

禅譲しか道がなくなった。

 

私はここで司馬昭の腹が決まったと考える。

だいたい歴史上評判の悪い司馬昭は、

あたかも司馬師を継いですぐに禅譲を意図したかのように描かれる。

 

しかし司馬師は急死であった。

それも、47歳と当時の支配層としては

早死にである。

司馬昭がその覚悟を持っていたとは思われない。

司馬師にすら、禅譲の企図は見受けられないのに、

司馬昭に至っては尚更だ。

 

曹髦を殺してしまった。

本来なら、賈充が負えないのなら、

司馬昭がその責めを負うべきだ。

 

 

それもしなかった。

 

ただ、後漢の梁冀、董卓に並んだだけだ。

 

このままでは皇帝弑逆の責任を問われる。

斉の崔杼、晋の趙盾の如しである。

 

ここでようやく司馬昭は禅譲への道を歩むことを決めた。

それは何故か。

禅譲が唯一の救いなのだ。

事例がある。

王莽である。

王莽は、平帝を毒殺し、

その後、高祖劉邦の霊から禅譲を受けたということで、

皇帝に即位した。

明らかな悪人だ。王莽は皇帝に即位して、新王朝を開くが、

失政続きで社会は乱れに乱れた。

しかし、誰もこれを批判しないのである。

王莽を事例に王莽のようなことをしてはならないという

話は全く出てこない。

 

実は、王莽は儒家の英雄なのだ。

これこそが本当は理想だった。

漢書を著した班固は、事実上王莽を称賛している。

 

皇帝を弑逆した司馬昭が、自身の正統を認めさせるには、

王莽の道を辿る他ない。

 

王莽の道を辿り、正統を主張、輿論に認めさせる。

そして、王朝を存続させる。

これが司馬昭の目標となる。

 

ただ、ここで様々な問題が生まれる。

 

 

まず輿論。

魏晋革命前夜の九錫などの固辞が司馬昭は

とても多い。

謙譲ではなく、よく言われるように、

輿論の反応を見たかったのであろう。

 

256年に初めて九錫の賜与を辞退している。

 

司馬昭の意図と言うよりは、

その取り巻きや魏の皇帝を嫌う朝臣の意向であろう。

 

反応が良くないので、

強く司馬昭に勧められない。

司馬昭自身も乗り気にならない。

 

そもそも司馬昭には、

皇帝たりうる事跡がなかった。

司馬昭が何をしたのか。

本人が一番わかっていただろう。

 

しかし、魏の皇帝を嫌い、

司馬氏の寛容の政治こそ、

古代からの理想だと考える支持者は多い。

 

というより、

こういう主張で、

窮屈な魏の治世から、司馬氏の時代に変えたいが本音だったろう。

 

ぐずぐずの、九錫の賜与、そして辞退を二度行う。

 

そうこうしているうちに、

曹髦を賈充が殺してしまった。

 

踏ん切りがつかないなか、

司馬昭は判断を迫られる。

 

自身の正当化のためには禅譲以外なくなった。

 

 

司馬昭が禅譲を受けるに値する事跡、実績をどう挙げるのか。

 

やはり、

はじめに思い浮かぶのは軍事的成功であろう。

 

となると、

呉か、蜀か、異民族か。

 

異民族討伐では、

司馬懿や諸葛亮に並ぶのみでそれを超えられない。

やはり呉か蜀の制圧である。

 

水か山か。

 

魏の建国220年から見ると、

呉に自国領土を掠め取られたことはないが、

蜀にはある。諸葛亮に武都を取られている。

 

人口比は、呉:蜀=2:1で

本来は蜀の方が与しやすいはず。

 

しかし、国力の割には蜀兵の方が強い。

諸葛亮の遺訓が残っている。規律が良いから軍隊としての動きがよく、

士気も高い。

 

また、対蜀では、230年の曹真が、長雨により撤退、

244年の曹爽が興勢山で膠着状態に陥り、撤退するも、追撃を受け、

大敗。

 

魏にとってあまり良い印象はない。

 

呉は、そもそも揚州が安定しない。

三度の反乱があったため、呉の対岸の魏の揚州が安定しない。

 

また、そもそも呉を攻める、長江を渡るための水軍をどうするのかという

問題が解決していない。

 

いずれも難題であった。

 

このまま、南北朝時代のように、100年以上三国時代が続いても

おかしくはなかった。

 

さて、司馬昭が呉か蜀かに対しての戦果を求めたのは、

王莽への道を辿りたいがためであった。

 

禅譲を実行するにあたり、

輿論の支持を得る必要がある。

 

その際、もうひとつ大きな問題がある。

 

実は蜀は、「漢」であるということだ。

 

これもまたわかりにくい問題だ。

 

皇帝は劉氏にしか成れないという考え方があった。

漢王朝が400年続き、また王莽が簒奪するも、光武帝が復興させるという

伝説的なことも起き、皇帝=漢=劉氏という考えがある。

 

その考えのもとに、生まれたのが、

蜀にある「漢」だ。

 

この蜀にある「漢」は、

関中や中原に侵入できれば、

呼応してくれる人たちがたくさんいると考えていた。

 

実際に、諸葛亮の第一次北伐時には元々調略はしていたものの、

隴右では呼応した人たちもいた。

呼応してくれる人たちがいる、という認識のもとに、

魏延などは、子午道を通って、一挙に長安を陥落させる、

そうすれば、漢の到来に呼応してくれる人たちが出てくると考えた。

 

魏と蜀が成立してから40年以上経つ、この時代においても、

蜀にあるこの「漢」という勢力は大きな意味を持っていた。

 

常に魏に対して、正統性に疑問を吹っ掛ける存在なのである。

特に、伝統的儒家思想を奉じる人たちには響いたであろう。

 

そういった人たちの支持を取り付けたい司馬昭にとっては、

この漢という存在は非常に大きな意味があった。

 

 

蜀が本来よかったであろうが、

蜀であろうが、呉であろうが、

征伐に賛同、提言をしてくれる人はいなかった。

 

ここがこの魏末西晋のずるいところだが、

ここで儒家としての顔を支配階級は見せる。

 

そもそも儒家思想で考えると、

 

本来は、政治の総覧者が善い行いをする、

それに下々の民が従う、それを慕って、

周辺の民が慕って、服従してくる、

これが徳治政治のあるべき姿だ。

本来の儒家思想は、武力行使を想定していない。

慕われるようにする、これが理想だ。

平たく言えば、わーいとみんなが集まってくる君主になること、

こういうことである。

 

つまり、現実的にどう征伐するか、となると、

逃げるのである。誰も考えてくれない。

伝統的考えではないのでわからない、そもそも軍事など知らない。

実力主義の時代だからこそ、大きな賭けには出れない。

成功すれば大きいが、失敗すれば救いがない。

何か、現代に通じるテーマでもある。

 

そう考えると、司馬昭も孤独な存在である。

うわべでは、忠義を誓ってくれるが、誰も本気で司馬昭のことを考えてくれはしない。

 

その中で、荒っぽいが、行動を起こしてくれる、

賈充などはどれほど司馬昭にとってどれだけ頼りがいがあったか。

 

賈充の提案が欲しいところだが、それはなかった。

賈充は軍事が苦手だ。

賈充は、臆病で常に切羽詰まっているからこそ、

思い切った行動ができてしまうのである。

 

軍隊を率いる、多数の兵士を率いてその人臣を掴むようなことは苦手だ。

そんな細かな気遣いをし始めたら、賈充は気が狂うだろう。

 

司馬氏一門で、司馬孚の息子である、

対蜀戦線の都督雍涼州諸軍事の司馬望にも、当然司馬昭は相談したはずだ。

しかし断られた。

蜀兵は強く、地の利があり、容易ではないと。

 

 

全く仰る通り。

しかし司馬昭は諦めるわけにはいかなかった。

このままでは、梁冀・董卓になってしまう。

王莽への道を行くには、なんとしてでも、呉か蜀の制圧が必要だった。

出来れば蜀を制圧したかった。

 

そこに鍾会の提案があった。