歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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前燕皇帝慕容儁の成功要因③弟慕容恪の胡漢両方のルーツを持つ

慕容恪(ぼようかく)がなぜ輔弼という概念を理解し、

そして実行し得たのか。

 

 

その背景を考えたい。

 

 

●慕容恪は何故兄慕容儁を輔弼し得たか。

 

・弟であること。

 

まず現実的な問題として、

慕容恪は慕容儁からみて、弟であることは大きい。

兄であると、異民族の習慣で言うと、先に部族を与えられてしまう。

当然、戦争の経験も積むことになる。

 

そうすると、弟よりも先んじることは間違いない。

率いる部族の側としても、その兄を盛り立てようとする。

行きつくところは、

その庶兄を大人(タイジン。一族の族長)にしたいとなる。

部族としては、それが勢力伸長の手段だからだ。

 

慕容廆、慕容皝は共に、この庶兄がいたことが大きかった。

それが助けになればよかったが、上記のような背景で

対立するに至る。

 

慕容恪はそうはならなかったのは、

まず現実的に弟であることは案外と大きい。

 

・慕容恪は、異民族と漢人とのハーフ。

 

慕容恪は慕容儁の庶弟である。

 

庶子であるということは、

母の出自が卑しいというのが基本である。

 

慕容儁の母は、遼西の鮮卑段部の出身。

段部は慕容部の長年のライバルである。

当時の異民族の名族であり、申し分ない。

 

それに対して、慕容恪の母は高氏と言われている。

つまり漢人である。

 

これ以外の情報は、

慕容恪は父慕容皝からの寵愛は、

長じて15歳になるまで得られなかったということしかない。

 

なぜか慕容皝から慕容恪は嫌われていた。

 

しかし、

15歳まで嫌われていた、

つまり15歳の成人した慕容恪と会うと、

慕容皝は慕容恪を気に入ったという事だ。

 

これは、

なぜなのだろうか。

 

それまで慕容皝は慕容恪をとにかく遠ざけていたということだ。

毛嫌いしていたとも言える。

 

子供が可愛くないということもあるだろう。

 

しかし、

それよりも大きいのは私は母親の存在だと考える。

母が寵愛されていれば、子も寵愛されるのが、

中国の歴史、典型的なパターンである。

 

慕容皝はなんらかの事情で、慕容恪の母を毛嫌いしていたのではないか。

 

●慕容恪の母の出自、渤海高氏とは。

 

慕容恪の母は高氏。

この高氏という名前で思い出されるのは、

渤海高氏である。

 

渤海高氏は、

後漢末に形作られ、

西晋の時に力を持ったとされている。

 

後の南北朝は北斉の高氏はこの末裔と称しているが、

これは偽りである。

 

異民族で鮮卑の北斉高氏が、

中華社会において自身の出自を偽るために、

高氏を乗っ取った。

 

そのぐらい価値のある家系であるのが高氏である。

 

渤海高氏は、

唐書によると、

太公望呂尚の末裔で、

姜斉の上卿を代々務めたあの高氏のことである。

 

この家系から後に范陽慮氏も出る。

范陽慮氏は代表的な名族であるので、

大元の渤海高氏も当然名族である。

 

●姜斉、田斉の血を継ぐ者こそが中華の本流。

 

何よりも、斉という国は、

姜斉であろうが、田斉であろうが、

秦の始皇帝に滅ぼされてから、

中華の源流と見なされる国となる。

 

あの王莽は田斉の王室の末裔であった。

だからこそ、前漢劉氏の後を受けてほしいという

輿論の支持を受けたのであった。

 

※春秋戦国時代の斉は、国の名前は斉だが、

戦国時代の前半に、太公望呂尚(姜尚)の呂氏から、

南方の陳からやってきた、田氏に乗っ取られている。

 

そのため、両者を区別して、姜斉、田斉と呼ぶ。

 

王莽は田斉の末裔だからこそ、

漢を排除してまでも待望されたのだ。

 

三国志呉の英雄、陸遜も姜斉の末裔である。

この中華の源流と言える、

斉の血を継ぐのが渤海高氏である。

 

西晋で興隆したので、渤海高氏は名門意識が高かったと

思われる。

西晋は名族社会で、渤海高氏がこの社会の中で、

非常に高いポジションを持っていたのは間違いない。

 

●漢族の高貴な血筋を好む異民族の長

 

しかし、西晋は内乱、その後の異民族の侵入で滅びた。

匈奴漢の宗族で、

後に前趙皇帝となった劉曜は、

西晋恵帝の皇后羊氏(羊献容。西晋元勲の一人羊祜の一族。羊祜の従兄弟の孫)を

皇后に迎えた。

 

自身が征服した敵対国君主の妻を強奪することは、

異民族がよく行うことだ。

しかし、これは当然だが、漢人にとって見たら、

屈辱以外の何者でもない。

 

西晋恵帝にあまり顧みられなかった羊氏は

劉曜に迎え入れられたことを喜んだが、

 

一般的に考えて、

夫が敵対し、そして夫の国を滅ぼした当事者を

好ましいと思う妻など、本来はいないだろう。

 

私は渤海高氏で慕容恪の母はそういった類の

女性だったのではないかと思われる。

 

●漢人名族渤海高氏は異民族への差別意識が強い。

 

渤海高氏は異民族蔑視が強い。

 

中華本流の血族であり、

そして西晋で繁栄を謳歌した渤海高氏。

だからこそ、異民族を蔑視する。

 

にもかかわらず、

塞外の異民族慕容皝の側室となったのは、

なぜか。

 

普通の婚姻ではないことは確実だ。

 

確実に渤海高氏の慕容恪の母が望んで嫁いだのではない。

さらに政略結婚であれば、慕容皝の正室であるはずだ。

そうではないということは、

 

渤海高氏が慕容皝のもとに来た理由はたったひとつである。

渤海高氏が鮮卑慕容部に

屈服させられた時の捕虜であったということだ。

 

慕容皝としては、

洗練された漢文化の教養を身につけた女性は非常に魅力的だっただろう。

 

劉曜と同様、妻として迎えるのは漢人名族渤海高氏を

屈服させたという象徴でもある。

 

しかし、渤海高氏の慕容恪の母からすれば屈辱以上の

何者でもない。

 

●慕容皝と渤海高氏の母の不仲

 

慕容皝になびくわけもない。

そしてそれを慕容皝が好ましいと思うこともまずない。

こうした経緯から慕容恪の母は慕容恪のことを

疎んじていた。

 

父慕容皝も自身に懐きもしない渤海高氏の子を愛せるわけもなく、

慕容恪を疎んじていた。

 

両親の不和、それに絡む漢人と異民族の差別意識を

考えれば、慕容恪の置かれた環境に関して、

辻褄があうと私は考える。

 

この証拠が、慕容恪という存在そのものである。

 

15歳にして既に慎み深く、軍略に秀でて、父慕容皝に軍権を与えられた。

さらに、

容貌も身長が高く、偉丈夫であり、英傑の相を備えていたのである。

父に気に入られないわけがない。

 

●父と母のルーツを大切にする慕容恪

 

父の死後、兄慕容儁にも同様に仕え、

常に異民族らしく戦陣を好んだ。

 

しかしながら、その統治は寛恕に満ちていて、

漢人からも懐かしまれるほどであった。

 

これほどの慕容恪は、

兄慕容儁の死の間際、自身の子孫がかなう所ではないとして、

慕容恪に後を継ぐよう求める。

 

これ自体も異民族には稀な事例だが、

慕容恪は輔弼の臣でありたいとして辞退する。

 

輔弼の臣という概念は周公旦に始まる考え方である。

自身で立たずに主君筋を立てるという概念は周公旦に始まる。

兄の孤児を盛り立てて長じては政権を返上するというものだ。

 

曹操・曹丕は輔弼を求められる世の風潮に反して、

禅譲を実行したので歴史的に嫌われるが、

実力主義の世界では何ら恥じるものではない。

 

弱肉強食の異民族ならなお当然である。

それを、鮮卑慕容部の宗族で、前燕の重鎮慕容恪が、

輔弼の臣でありたいと言い放ったのは歴史的なことであった。

慕容恪は367年に死去するまで、

前燕王朝の輔弼を全うしたのである。

 

それは何故なのか。

これは慕容恪の母に対する憧憬だと私は考える。

母に疎んじられた慕容恪。

母のバックグランドは、漢人名族であり、

その文化、教養に慕容恪は憧れたのではないか。

 

●胡漢両者の強みを持つのが英雄慕容恪

 

漢人教養を磨き、母に疎んじられたからこそ、

母に認められる存在たり得たかったのだと私は考えている。

そして、

父が鮮卑慕容部の首領である慕容恪は、

当然軍事のたしなみはなくてはならない。

 

その努力が実り、

慕容恪という胡漢を理解する存在が出来上がったのである。

 

漢人の教養・軍略を積みながらも、

異民族の勇猛さを兼ね備えたのが慕容恪である。

中華大陸において、民族シャッフルが行われた

五胡十六国時代だからこそ生まれた英雄と言える。

 

この慕容恪が長幼の序を踏まえて、

兄慕容儁に忠誠を誓ったのだから、

前燕鮮卑慕容儁が後世に轟くほど強いのは当然とも言える。

 

●石勒を継ぐ者、慕容恪

 

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