歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

成漢建国前史① =蜀漢で培われた独立心=

 

成漢の前に、巴蜀にあった蜀漢の経緯から、

成漢成立時の巴蜀の事情について記したい。

 

蜀漢を創ったのは劉備である。

しかし、

この国は建国される直前まで、

荊州南部から蜀、漢中に至るまでのエリアを領する国であり、

「蜀」に限定される国ではなかった。

 

関羽の失策により、

荊州を失陥。蜀のみを領するに至り、

蜀漢と歴史上呼称される。

 

この辺りの事情が後の成漢成立に影響を及ぼす。

 

●劉備が作った蜀漢は元荊州政権。

 

 

劉備という人物は、

荊州で初めて自立をしている。

 

視点を変えると、

荊州の人士が劉備を立てて自立したことになる。

あまり語られない視点だが、事実はこうだ。

 

劉備政権というのは

実は荊州政権なのである。

その荊州政権が、

蜀を獲ったのである。

 

そのため、劉備勢力、後の蜀漢は、

実は、

荊州>益州(蜀)

なのである。

 

●荊州政権の劉備勢力(後の蜀漢)なのに、荊州本国を奪られた。

 

にもかかわらず大事件が起きた。

 

関羽の襄陽攻撃が失敗、

曹操と孫権に挟み撃ちされ、

荊州を失陥した。

 

本国、本拠地が奪われたことになる。

 

劉備政権の中枢は荊州出身者ばかりなので、

これは大変なことであった。

 

故郷に帰れない。

一族の者が孫権に人質として取られている。

荊州の財産、資産が全て孫権のものとなってしまった。

 

このため、劉備は対呉遠征を急ぐのである。

 

関羽を失ったなどという情緒的な問題ではないのである。

それは、三国志演義の視点である。

 

劉備自身の立場が危ういのである。

荊州人士が故郷に帰るといって劉備を見捨てることだって、

十分にあり得るのである。

劉備の元から逃亡しても、孫権は迎え入れただろう。

 

●ついに「呉越」が「楚」を領有した。



さらに言うと、

歴史的に見ても実はこれは画期的な事件であった。

 

常に楚に代表される

荊州、湖北・湖南エリアは、

江南、呉越エリアを凌駕してきた。

 

両エリアは文化圏が異なっている。

呉越エリアの方が文明としては後発であり、

一時楚エリアは呉越の脅威にさらされたものの、

その後楚が呉越を支配している。

 

楚の呉越に対する優越感は歴史的なものだ。

 

それが関羽の失策、孫権の策謀により、

逆転した。

 

潘濬という人物が、孫権によりベッドごと引っ立てられるまで、

呉による荊州侵略を悲しんだという話があるが、

これは劉備への忠義よりも、

荊州人士、すなわち楚人としてのプライドだと私は考える。

今の日本でも、

関東人、関西人という言い方をする。

関西人は未だに400年前の豊臣秀吉に親しんでいる。

こうした連綿たる歴史認識を舐めてかかってはならない。

 

劉備はすぐに呉に遠征したが、敗れた。

夷陵の戦いである。

 

●●関羽の失策

 

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劉備は恥を知り成都に戻らず、永安で病死した。

当然である。

臣下の大半が、劉備の義弟関羽の失策により、

資産は盗られ、親族を人質に取られたのだ。

会わせる顔がない。

 

この経緯であれば、

劉備が死の間際に、

荊州人士の代表、諸葛亮に

後は全て委ねたいといいたくなる劉備の気持ちも、

わかるのではないか。

しかしながら、

諸葛亮はそこまで劉備に甘くはなかった。

諸葛亮の目指すところは、管仲であり楽毅であり、

また曹操・曹丕に対するアンチテーゼとしての

漢の復興、輔弼であった。

劉備に共感することなく、

法家として原理原則を重視する諸葛亮は、

劉備を看取る。

 

諸葛亮は輔弼という原理原則に忠実であり、

対魏攻略を優先とした。

だからこそ、すぐに

孫権とは講和したのである。

それは荊州の領有を放棄することであった。

荊州人士の強い反対が当然あったが、

それを諸葛亮はまとめきった。

 

これこそが、諸葛亮最大の功績であり、

蜀漢が42年存続した理由でもある。

 

現実的であり、そしてイデオロギーも確立した。

正に事実上の蜀漢建国者、諸葛亮である。

 

 

●亡命政権、劉備・劉禅の蜀漢

 

こうして、

蜀という地にありながら、

政権中枢は荊州人、すなわち楚人が占めるという

亡命政権が出来上がった。

構図は現代の台湾と同じである。

 

劉禅という皇帝の下、

諸葛亮、その後は蒋琬という荊州人が政権を取る。

 

その後は荊州出身の費禕であるが、

費禕は劉備以前の事実上の蜀の主、劉璋と

姻戚関係にあった。

荊州と蜀を代表し得る人物であった。

徐々に荊州人が蜀へ定着するに辺り、

やはりこのバックボーンはうってつけの人材であった。

 

費禕は

現実路線として、

専守路線を取ろうとするが、姜維に暗殺される。

 

 

●●費禕と姜維

 

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姜維は涼州人であった。

自身の出自、そして諸葛亮の打ち立てたイデオロギーを

遂行すべく、姜維は非常手段に出た。

 

姜維の北伐は七度に及ぶが、

結論として成果が上がらなかった。

 

国力を消耗し、

北伐派と反北伐派の対立が解消しない中、

司馬昭が263年に蜀漢を攻撃、蜀漢は併合される。

 

●荊州人は蜀に定着し、そのまま帰らなかった。

 

40数年、荊州人が権力を握る、

蜀の地にあった亡命政権蜀漢。

 

司馬昭に滅ぼされたとき、

この荊州人は故郷の荊州に戻っただろうか。

戻らないし、戻れないわけがない。

 

既に蜀で権益を得ていたし、

荊州はまだ呉のものだった。

 

そして、

280年には西晋を建国した司馬昭の子司馬炎が

呉を併合。

荊州は同じ国となり、移動することはできるようになった。

しかし、

それでも元の荊州人は荊州に戻らなかっただろう。

 

蜀には資産があり、荊州には資産がなかった。

 

●蜀の二重構造。

 

そしてこの荊州人たちは、

蜀漢で高位であったために、

西晋に支配されても、大きな資産を持っていたはずだ。

官には就けなかったかもしれないが、

その辺りは寛容なのが、西晋のスタイルである。

 

蜀という地域がこうして二重構造を持っていることが

わかるだろうか。

 

下層は土着の蜀の民、それは巴蜀文化に由来する。

上奏は蜀漢の高位層、元々荊州人で、

自立しようとして自分たちで劉備を担ぎ上げた。

 

曹操の攻撃の前に集団逃亡して劉備にゾロゾロ歩いて従って行った

あの人々の末裔なのである。

こうした資産家、普通は歴史上豪族などと言われるが、

こうした人たちは知識人でもあり、

だからこそ魏を受け継いだ西晋に支配されているという感覚があった

経緯を考えれば当然である。

 

西晋が末期症状を呈すると、

こうした蜀漢はすんなり独立するのである。