歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬道子の謝安追放は当然である。

司馬道子について。

 

 

淝水の戦いに大勝すると、

司馬道子は謝安を政権から追い出す。

すぐにだ。

 

司馬道子は後に腐敗・堕落し、

東晋亡国の原因を作ったとしてとかく評判が悪い。

 

しかし、

司馬道子にも理由があるのである。

 

●謝安は、桓温の対立勢力。

 

まず司馬道子が追い出した謝安とは何者か。

 

謝安は謝安で、桓温に対する

対抗勢力の代表である。

 

桓温は貴族の力を抑制した。

その最たるものが364年庚戌土断(こうじゅつどだん)である。

 

●桓温=曹操論

 

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そもそも土断というのは皇帝権の強化である。

 

●土断の性格

 

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桓温は

当時の法家の大家、庾氏三兄弟(庾亮、庾冰、庾翼)の勢力を継いでいたから、

桓温自身も法家の影響を大きく受けていた。

 

法家思想は、

当時の富国強兵策のセオリーである。

 

曹操も、諸葛亮も法家である。

 

法家は諸子百家の一つで、思想といえば思想だが、

この東晋期においては、思想というより、本来はセオリーだった。

 

しかし、この法家思想、皇帝権強化は、

貴族名族たちの権限を抑制するものであった。

 

貴族からすれば、

私有地、私有民が取られるわけだから、

自身の力を弱めることになる。

 

法家思想に則って、政策を行うと

ありがちな反応だが、桓温は貴族に恨まれた。

 

それは、呉起が楚において、

各諸侯の力を抑制して中央集権化を進めた結果、

最後は諸侯に殺されたのと同じである。

呉起の支持者、楚の悼王が急死したため、

呉起に対して反乱が起きたのだ。

 

こうして、貴族に恨まれた桓温は、

呉起とは異なり、

天寿を全うする。

(したと思われるが、言い切れるかは微妙ではある。

簡文帝が死んですぐに桓温も死ぬというのは

タイミングが良すぎる感も拭えないが。)

 

ここで出てきたのが

謝安である。

 

●亡き桓温勢力の退場。

 

桓温は

自身の死後を考えた時に、

このまま勢力を保つことを諦めた。

 

自身の後継者に

4歳の幼児桓玄を据え、

その後見人として桓温が全幅の信頼を置く桓沖を置いた。

 

桓沖は、

謝安に警戒をされないよう時期を見計らい、

そして荊州に撤退する。

 

謝安は桓沖の荊州撤退に伴い、

政権を掌握したが、

それは反桓温であっただけで取り立てて何か新しいことをするわけでもない。

 

桓温により、

中央集権化、皇帝へ権力が集中していたところを、

緩和するのみである。

 

桓温は確かに急進的であったかもしれないが、

華北が異民族に蹂躙されている今、

急ぐには大義名分があった。

 

だが、謝安が代表する貴族名族層は、

逆のことをした。

 

●亡き桓温勢力の退場で困った皇帝とその宗族。

 

 

亡き桓温勢力は、

うまく荊州へ撤退した。

 

東晋を約30年リードした稀代の英雄、桓温亡き今、

幼児桓玄も、末弟桓沖も、

桓温と同じように振る舞うのは非常に危険である。

 

大変に、現実的な判断であったと私は考えている。

 

しかし、

ここで困ったのが、

桓温と結びついていたもう一つの勢力である。

 

皇帝とその宗族である。

 

そもそも、

桓温は東晋明帝の娘婿である。

そして、この明帝の娘の母は庾氏で、

上記庾氏三兄弟の妹であった。

 

この辺りがピックアップされないのが

正史のいやらしさだが、これが事実である。

 

桓温は庾氏とともに皇帝の姻族勢力であり、

その由来からして皇帝とその宗族と密接な関係にあった。

 

桓温が皇帝とその宗族を盛り立てていた。

桓温と同時期、皇帝とその宗族勢力を代表していたのが、

司馬昱である。後の簡文帝である。

 

司馬昱は、

東晋建国の祖、元帝司馬睿の末子である。

ちょうど桓温が庾氏三兄弟の末弟、庾翼が死去し、

勢力を継承した頃に、

中央政権を代表する存在となっている。

 

桓温は晩年以外は、

荊州の江陵に出鎮していたので、

中央で桓温を代弁する人物が必要であった。

 

それが司馬昱、のちの簡文帝である。

 

最後には、

簡文帝は桓温の力により皇帝までなるのだが、

それだけ、皇帝・宗族勢力は、

桓温と密接な関係を維持していた。

 

桓温が強い力を持つ間は、

皇帝・宗族の力も安定して保持できた。

 

しかし、

司馬昱が皇帝となって六ヶ月で崩御、

それを追うように1年後に桓温も死去。

 

亡き桓温勢力は、桓沖が指導して荊州へ撤退。

 

そこに謝安が貴族名族を代表して台頭。

 

謝安ら貴族名族たちは、

桓温が行った皇帝への中央集権を嫌がった。

 

謝安はその中央集権の傾向を是正しようとする。

 

さて、これで困ったのが、

皇帝とその宗族である。

 

謝安が政権を取った時期の、

皇帝は孝武帝、

宗族のトップは司馬道子である。

 

いずれも簡文帝司馬昱の子で、

同母兄弟である。

 

●司馬道子の反発は当たり前。

 

さて、

話は初めに戻る。

 

司馬道子はとにかく評判が悪い。

そして桓温も評判が悪い。

 

 

しかしそれを鵜呑みにして歴史を見てしまうと、

実態から逸れる。

 

たしかに、

司馬道子は結局、桓玄の簒奪を実現する原因を作った。

桓温は桓玄の父である。

 

彼らは対立しているように見える。

 

違うのだ。

彼らの父司馬昱と桓温は共に、

土断で貴族名族の力を抑制した仲なのである。

 

のちにこの時代の正史を形作るのは、

唐代のことである。

中華の歴史をこの時代を可視化するのは、

この時代の貴族名族たちの子孫であった。

 

彼らの視点で描かれていることに重々注意しなくてはならない。

 

 

孝武帝と司馬道子は、

桓沖が荊州に帰り、

謝安が政権を取って困ったのである。

 

自分たちに実権がない。

 

これが実態なのだが、

それどころではない事態が発生する。

 

ちょうど謝安が政権を取る、

376年ごろから華北は前秦苻堅の脅威が増すのである。

 

内部で争っているどころではない。

 

一旦は前秦苻堅との抗争に明け暮れる。

 

これが、

383年淝水の戦いにおいて、

東晋の大勝に終わると、

東晋の内部抗争が始まる。

 

謝安は勝ちに乗じて、

鄴へ迫る勢いを見せるも、

確保はできず。

 

これで東晋にとっての、前秦苻堅との苦しい戦いは終わった。

 

終わったら、

孝武帝、司馬道子の手により、

かねてから邪魔だった

謝安を政権から追い出す。

 

とにかく謝安が邪魔だったのだ。

 

司馬道子が実行犯ではある。

だが、これは皇帝である孝武帝の意思もあったと私は言い切る。

 

●謝安は下手。

 

つまり謝安は下手なのだ。

 

謝安が淝水後にすぐに更迭されても、

誰かが反対するわけでもない。

 

貴族名族たちの確実な支持があるわけでもない。

 

歴史的大勝を納めたのに、

輿論が動く気配もない。

 

高い輿論の支持を背景に政権を掌握した桓温と

正反対である。

 

そして、

時の皇帝と宗族のトップともうまくやれていなかった。

 

淝水の戦いという

自身の実績をどうとでも宣伝できそうなものなのに、

謝安は下手すぎる。

 

謝安は、

孝武帝や司馬道子の不満にすら気付かなかったのではないか。

 

●参考図書;

 

魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

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中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

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