歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

東晋元帝司馬睿⑤江南がまとまったのは王敦と王導のおかげ

司馬睿は司馬越の指示で、江南は建業にやってきた。

 

まとまりがつかない江南を、

うまく取りまとめたのが、

瑯琊王氏の王敦と王導である。

王敦の方が王導より10歳年上である。

 

 

●八王の乱の勝者司馬越、懐帝に足を引っ張られる。

 

八王の乱は司馬越の完全勝利とまではいかなかった。

八王の乱における反司馬越派が擁立した、
西晋皇帝、懐帝と対立してしまうのである。

●●●八王の乱の延長戦

 

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懐帝は、反司馬越派の司馬顒が擁立した皇帝だった。

司馬越は最高権力者ではあったが、

皇帝懐帝を掌握し切れず、

かつ各地に反乱が続くという状況に取り組まなければ

ならなくなる。

 

まさに内憂外患の状況であった。

このような状況の司馬越だったから、

江南にやってきた司馬睿と王導は、

自力で江南を取りまとめる必要に迫られた。

司馬越の指示とは言え、支援を得られないからである。

 

しかし、彼らは江南において、

特に何の力もない。

司馬睿、王敦、王導にとっては、

瑯琊という封国、本籍から遠く離れた異国なのである。

 

司馬越から任じられた官職や血筋の

持つ権威で、政治的にうまくやっていく他ない。

司馬睿らはかなり厳しい状況にあった。

 

●西晋が滅亡へと向かう中やりくりする司馬睿ら。

 


このやりくりは、事実上王導に委ねられた。

(私は王導だけではなく王敦も含んでいると考えているが、

ここでは王導としたいと思う。)


司馬睿には、調整能力はなく、

またそのようなことを西晋の宗族たる司馬睿が

できる必要もないという、時代の風潮でもあった。

 

307年に赴任してきて以来、

江南土着勢力との連携を模索する中、

310年に銭噲(センカイ)の乱が起きる。

 

一方、中央では

司馬越が、懐帝との妥協を諦め、

西晋を捨てて、10万人を引き連れて、江南へ向かう。

これはよく軍勢と言われるが、

その実態はただの集団移動である。

 

●●●

 

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司馬越は江南に向かったが

その意思は叶えられることなく、

江南建業へ向かう途中の豫州項県で死去。

311年3月のことである。

 

この司馬越が引き連れていた10万人は、

この後すぐに石勒により、皆殺しに遭う。

311年4月のことで、司馬越の死後一月後である。

 

この10万人は西晋王朝中枢を担っていた人物が

多数含まれていた。

司馬睿の叔父司馬澹もこの中に含まれていた。

ここに人間単位としての西晋は事実上滅亡する。

 

 

311年6月には帝都洛陽陥落、

西晋皇帝懐帝は虜囚となり、

名実ともに西晋は滅びた。

 

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これで困ったのは、

司馬睿をはじめとした西晋側として各地を統治している者たちだった。

 

●司馬睿の下、実働するのは王敦と王導

 

西晋は311年の3月から6月の

たった4ヶ月の間に、一気に皇帝も最高権力者もいなくなったのである。

 

西晋という実態がなくなった。

完全に独力で、司馬睿と王導は江南を何とか支配する他なかった。

繰り返しだが、

司馬睿は象徴で、実働は王敦・王導である。

王敦・王導は歴史的な江南土着勢力は取り込むことに決めた。

いわゆる呉郡四姓と言われる名族を

筆頭に取り込み、

新興の勢力は冷遇して、

その利権を奪い、自分の物にした。

イギリスの植民地政策にもよく見られる、分断統治である。

 

 

その結果として、
314年に

新興の土着勢力の周勰(しゅうきょう)の乱が起きるが、

王敦・王導にとってこれは想定できたことであった。

周勰の同族を王敦・王導は籠絡し、難なく乱を鎮圧する。

 

一方、

西晋皇帝の懐帝は、

匈奴に囚われたまま、

313年1月に処刑される。

これを受けて、

313年4月に愍帝が長安にて擁立される。

愍帝は司馬炎の孫、呉王司馬晏の子である。

西晋は司馬炎の血筋しか皇帝になれないが、

愍帝司馬鄴にはその権利があった。

●●●司馬炎の血縁

 

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しかし、長安周辺しか実効支配しえず、

江南の司馬睿と同じ地方勢力の一つに過ぎなかった。

 

316年11月には、

愍帝は匈奴漢の劉曜に降伏、

317年12月に処刑された。

ここに西晋は名実ともに完全滅亡した。

 

匈奴漢による311年6月の洛陽陥落から6年半。

このような西晋の状況なので、

当然江南の司馬睿と王導に、

支援など何もなかった。

自助努力をする他ない。

 

317年には司馬睿は晋王を名乗る。

群臣の推挙とあるので、

劉備の漢中王を名乗った時に近いのだろう。

愍帝が劉曜に降伏したのを聞いて、

対処したのだと思われる。人がまとまるには、肩書きも大事だ。

 

のちに317年12月の愍帝の処刑を時間差を持って知る。

318年3月に司馬睿は皇帝に即位する。

この3ヶ月は正統な皇帝が中華に存在しない、

中華の歴史上最初で最後のことであった。

 

これにより東晋が成立。晋王朝の再興となる。

 

●司馬睿が皇帝になれたのは、王敦と王導のおかげ。

 

とにかくこの経緯でわかるのは、

司馬睿と王導は、307年に江南に来てから、

ほぼ中央の支援なくして、

江南を統治するしかなかったということだ。

さらに司馬睿は、

大した対処もできず、実際は王導の差配による。

さらに江州(旧九江郡)から荊州方面は、

王導と同族の従兄王敦が

司馬睿勢力に取り込むべく、

活動をしていた。

318年の司馬睿、皇帝即位の段階までに

何とか江南をまとめて形にしたのは、

王導と王敦のおかげなのである。


形がなければ、

司馬越の血筋の司馬保を差し置いて、

皇帝になることはできなかった。

 

元帝司馬睿は大したことはできず、

ただ王敦と王導に祭り上げられた存在だった。

にも関わらず、東晋元帝司馬睿は王敦を排除しにかかる。


王敦は不満を持ち乱を起こす。

王導は身を引いて従順を振る舞ったので許された。

王敦の血筋につながるから連座して罰せられたという人物がいるが、

逆に王導の血筋だからということで許されたものもいる。

 

つまり、王敦の乱で罰せられたのに、

その後王導に繋がるからということで許された。

それは、王導が王敦の乱で一度は失権したが、復活したということを指す。

 

王導は自らの手で

取り込んだ各勢力からの尊崇を受けていた。

支援してくれる人脈があったのだ。

これで、王導は生き残り、

東晋の名丞相という伝説が作り上げられる。

東晋元帝司馬睿の南遷も王導の助言とされてしまう、。

こうして、

東晋以後南朝における

最高の名族、瑯琊王氏として反映するのである。

 

東晋皇帝は、

こうしてただの象徴に過ぎず、

大した力のない存在となる。

 

また王導のリードにより、

何とか東晋の形を整えたが、

その国内事情は

異民族の跋扈する華北を窺うことはできなかった。

 

非常にギリギリの国内事情だったからだ。

それを憂慮して、国内事情とは関係のない、

祖逖は北伐に向かう。

しかし、そんな祖逖も、

王敦の牽制のための司馬睿の政略に足を引っ張られた。

 

司馬睿は江南をまとめることすら実態はままならず、

北を窺うことなどは毛頭できなかった。

 

●参考図書:

 

西晉の武帝 司馬炎 (中国歴史人物選)

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