司馬道子。
東晋末期の悪役である。
謝安を384年に追い出してから、
政権を取る司馬道子。その後桓玄が簒奪。
この桓玄を劉裕が打倒。
劉裕は東晋を牛耳る。
後に劉裕は東晋から禅譲を受けるという流れ。
こうした、わかりやすい勧善懲悪的なストーリーだが、
実際にはもう少し込み入った事情がある。
●孝武帝と司馬道子の兄弟争い
謝安を追い落として、宗族のトップとして実権を握る司馬道子。
しかし、宗族であろうが、
皇帝であろうが、
貴族と同じ高位層に違いはない。
特になにかを成し遂げたいわけではない。
ただ、好き勝手にやりたいだけ。
●恩倖(オンコウ)の初登場
これに協力したのが恩倖(オンコウ)であった。
貴族ではない、寒人と呼ばれる、
実務官僚である。
貴族名族たちが非協力的なので、
貴種ではない彼らを使って国家運営をするほかなかったのである。
この恩倖(オンコウ)が東晋後の南朝において、
一つの勢力として政権にはびこるのはまたのちの話である。
そのうち孝武帝と司馬道子が対立する。
同母兄弟の争いである。
互いにやりたいようにやりたいだけなのであるから、
兄弟争いが起きるのも道理である。
特に弟司馬道子の方が権限を振るっていたのだから、
兄が嫌がるもの無理もない。
これに協力するのが、太原王氏の王恭。皇后
の兄で外戚であった。
王恭は北府軍、
西府軍を抑え、着々と権力を広める。
しかし、
孝武帝早死にする。34歳。396年のことである。
死因は遊興の行き過ぎで、妾の張貴人に、
布団で窒息死させられたというものであった。
これで東晋の政局が流動化する。
バランスが崩れたのだ。
司馬道子の専横極まる。
王国宝の専横。王国宝も太原王氏。
●398年亡き孝武帝の義兄、王恭の乱
これに対して、
398年王恭の乱。
殷仲堪、桓玄と協力して、挙兵。
王恭は北府軍、
殷仲堪は西府軍、そして桓玄が合力しているので、
東晋の軍勢は大半王恭に付いていた。
挙兵直後、司馬道子は王国宝を処刑し、王恭は一旦矛を収めるも、
再度挙兵。
しかし、北府軍の劉牢之が
王恭を裏切り失敗。
司馬道子の息子司馬元顕が劉牢之を切り崩したからであった。
一方、西府軍の殷仲堪は、桓玄に裏切られる。
司馬元顕が桓玄を切り崩したのだろう。
桓玄は殷仲堪を殺して、西府軍を掌握する。
荊州の事実上の王者と成る。
時に、桓玄29歳。
司馬元顕は皇帝を握っている。
反乱軍側は、王恭亡き今、力を失っている。
桓玄が司馬元顕側についても、
当時は名声が落ちるわけではなかった。
後世から見れば、ただの梯子外しだが。
●司馬道子の子、司馬元顕が孫恩の乱を引き起こす。
司馬元顕の専横。
しかし、父司馬道子の時期に比べて、
北府軍の劉牢之、西府軍の桓玄の力を使った分、
権限が下がっていた。
そこで、劉牢之、桓玄に対抗しようとして、
司馬元顕は
貴族の上級隷属民を国家の兵役に就かせようとする。
これは、
一見正当なものに見える。
しかし、当時は貴族名族の大土地所有が当然で、
隷属民、つまりこれは私有の人間だった。
貴族名族の資産である。
これで、貴族名族たちの生活を回している。
大した機械などなかったこの時代、
人は資産、財産であった。
それを、
司馬元顕は徴発したのである。
貴族名族たちの反発は相当なものであった。
これに加えて、
司馬道子以来の放蕩な社会により、
下級層の生活が厳しくなっていた。
後漢末期の五斗米道の流れを組む、
宗教結社を引き連れ、孫恩が反乱を起こす。
孫恩の乱。
農民主体の乱で、これは典型的な王朝の末期症状であった。
●桓玄が東晋の実権を奪い、皇位を簒奪する。
司馬元顕は
孫恩討伐に手間取り、
事実上の軍閥であった桓玄に援軍を要請する。
しかし、
そこを逆をついて、
司馬元顕がやられる。
今度は、桓玄が主体となって、
北府軍を掌握する劉牢之を籠絡。
桓玄は、劉牢之とともに
司馬元顕と
父司馬道子を葬り去った。
桓玄はこれで政権掌握。
楚王となり、すぐに禅譲へ。
桓玄による事実上の皇位簒奪であった。
劉牢之は、
桓玄の禅譲に加担したことに焦り、
再度の反乱を考えるも、
劉牢之は幕僚の劉裕に裏切られ、自殺。
こう書くと何か劉裕は
こののち東晋を復活させるから英雄のようだが、
劉裕は貴族名族層から裏切りを持ちかけられ、
劉牢之を殺したのである。
劉裕は劉牢之排除をきっかけに
桓玄に対してクーデターを起こす。
桓玄は、荊州に逃れる。
劉裕、東晋を復国させて、実権掌握。
●参考記事;
●参考図書;