歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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石虎の治世=慕容皝、庾氏三兄弟との戦い=

333年の石勒の死後、 4年かけて石虎は石勒を継承した。 ●時間をかけて石勒を継承した石虎、外征へ出る。 ●石虎、慕容皝と仲違い ●東晋庾亮に北伐の動きあり、機先を制す。 ●外征は上手くいかなかった石虎時代。その代わり平穏であった。 荒々しい猛将のイメ…

石虎、王莽型の皇位継承で、石勒を継ぐ。

石勒の晩年、力を抑えられた石虎。 石勒の死後、すぐに自身が石勒を後継すべく動く。 ●魏王・丞相・九錫の石虎が禅譲を受けないその意味: ●曹丕型ではなく、王莽型の禅譲を企図する石虎: ●「異民族は皇帝になれない」説 ●周公旦の「輔弼」伝説 333年8月後…

五胡十六国時代前半の年表〈西晋崩壊以後、383年淝水の戦いまで〉

五胡十六国時代は、 383年の淝水の戦いの前後で時代が分かれる。 華北も江南東晋も、 淝水の戦いへとどう向かっていくのかという視点で、 見ていくとわかりやすい。 中華全体の視点から年表で辿りたい。 〈300年〜329年 西晋以後の情勢〉 〈329年〜347年 華…

桓温死に臨み、末弟桓沖に後を託す理由。

桓温はその死にあたり、 実の子ではなく、 年齢の近い弟でもなく、 末弟の桓沖に後を継がせた。 ●一歳の時から桓温が面倒を見てきた弟・桓沖 ●なぜ桓沖が譙国桓氏の後継者か。 ●譙国桓氏のソフトランディングを桓温に任された桓沖 ●桓沖は桓温死後の最高権力…

桓温が老年の会稽王司馬昱を皇帝にする理由

●最高権力者が傀儡を目的にして、51歳の皇帝を擁立することはない。 ●司馬昱を皇帝に擁立した桓温の目的は北伐を遂行だ。 ・司馬氏宗族のトップ、司馬晞の排除。 ・桓温への反発から反北伐派へ転向した、庾希 ●皇帝司馬昱の早すぎる死、落胆した桓温も後を追…

陰陽五行説② 王莽以後の王朝の五行は?

王莽より前は相克。 王莽以後は相生。 明清で相克、その後相生。 ●後漢光武帝は、王莽の陰陽五行説の改変を受け入れる。 ●後漢より後、元までは相生説。 ●曹丕が確立した相生=禅譲スタイル。 ●明は元を打ち倒す。相生ではない。 ●清は相克、相生いずれでも…

陰陽五行説① 中華王朝、それぞれの色は何か?

結論として、 中華王朝の色は何かという定義は時代によって変わってしまうのである。 まずこの①では新の王莽までについて述べたい。 王莽より前までは 陰陽五行思説の「相克」の順である。 戦国時代の末期に成立した、 「呂氏春秋」において、 王朝の変遷を…

桓温の時代 345年〜373年

桓温を引き立てたのは、 庾亮である。 ●桓温の出世 庾亮の思惑 ●庾亮が決めた桓温への公主降嫁。 ●絶望的な状況だった東晋と庾亮 ●蘇峻の乱以後の沈静化した時代から、桓温の時代へ。 ●桓温の功績を時系列に語る。 ・桓温、荊州は西府軍の掌握。 ・桓温、蜀…

桓温は意図的に父の仇討ちで名を挙げる。

345年に桓温が西府軍を掌握してから、 桓温が死ぬ373年までは、桓温の時代である。 ●東晋の救世主、桓温。 ●桓温の出自 ●桓温が名を挙げた、父の仇討ち ●蘇峻の乱で死んだ父桓彝 世に出るきっかけは、父の仇討ちである。 ●東晋の救世主、桓温。 桓温は東晋の…

「作られたヒーロー」桓温の登場=各勢力の実力者が世を去り、桓温にお鉢が回ってくる。=

桓温の登場は345年である。それまでに、 各勢力の実力者が死んだことで、桓温にお鉢が回ってきた。 ●次々と各領袖が世を去って行く。 ●334年、西府軍の祖陶侃の死。 ●庾亮の北伐計画、未然に石虎に潰される。 ●王導、郗鑒は339年、庾亮は340年に死去。 ●桓温…

東晋 庾亮の時代 329年から345年まで

庾亮は、329年に東晋を沈静化させた。 各勢力のバランスオブパワーが確立したのである。 ●東晋大乱を生き残った5つの勢力 ●北来貴族の庾亮は、皇帝や瑯琊王氏に好かれる。 ●法家思想に長じる庾亮は明帝からの高い信用を得る。 ●幼帝の下、庾亮自身が法家政治…

蘇峻の乱 327年-329年 〜軍閥の台頭は亡国の兆し〜

●軍閥の台頭は、王朝を滅ぼすもの。 ・後漢の例 ・西晋の例 ・唐も清も中華民国も同じ。 ●軍閥を抑制したい外戚庾亮 ●軍閥側蘇峻・祖約らの視点 ●執政庾亮と軍閥蘇峻の対立。 ・蘇峻の怒り。 ・庾亮の正論。 ●蘇峻の乱勃発。 327年から329年まで続く、 蘇峻…

東晋初期の内紛。蘇峻の乱が終わる329年までの概略

313年豫州まで来ていた。 石勒の撤退により、 司馬睿政権は難を逃れた。 これにより事実上の東晋が成立する。 ●東晋、5つの勢力 ●東晋建国の元勲、王敦の乱 ●外戚庾亮の専権 ●蘇峻の乱。叩き上げの蘇峻に配慮しない庾亮が悪い。 ●329年に東晋内部がようやく…

王敦の乱は、王導が裏切ったから失敗した。

●第一次王敦の乱 王敦が仕掛ける。 ●王敦は大将軍兼丞相、王導も司空から司徒へ昇進。 ●王敦病気になる。第二次王敦の乱 明帝派が仕掛ける。 ●王敦が潰されても、王導はまた昇進する。 王敦は、 王敦が軍権、 王導が朝廷をそれぞれ牛耳ることで東晋は確立し…

瑯琊王氏の事実上の頭領は王敦である。

東晋の事実上の建国者は、 司馬睿でも、王導でもない。 王敦である。 この理由を説明したい。 ①王敦は実は司馬炎の婿 ②王敦は揚州刺史で直臣、王導は司馬睿の属官で陪臣 ③王敦は王導より年上: ④使える勢力は使うだけ使って捨てるのは王敦の策 ⑤王導が排斥さ…