歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬穎の不在が公師藩・汲桑の乱を生み、石勒という英雄を生み出す。

 

司馬穎の政治生命は、

3014月の司馬倫の対賈后クーデターから頭角を現し、

3048月鄴陥落、30412月に皇太弟を廃されて、

事実上政治生命を終えてしまった。

司馬穎の命は、30610月に終わる。

 

 

 

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305年~306年公師藩 307年汲桑 司馬穎の残党の反乱

 

 

司馬穎麾下には二人の英雄がいた。

 

劉淵の雄飛

一人は、劉淵。3047月から8月の鄴攻撃を司馬穎が受けた際に

劉淵の匈奴領域への帰還を許す。そのため、

匈奴の独立を許してしまった。

漢を称し、最終的には西晋を直接的に滅ぼすことになる。

 

 

石勒の登場

石勒の生い立ち

 

もう一人は、

石勒である。

并州にいた羯族である。

内徙された異民族の一つであった。

 

羯族の有力者の子であったが、

司馬騰の政策で奴隷として売り払われる。

 

奴隷として散々な目に遭い、転売され各地を

転々とする。

 

ある時、石勒は牧場で働いていたが、

その隣の牧場主が汲桑であった。

 

汲桑は奴隷でありながら、石勒が只者ではないことを

見抜き、交流を持った。

 

石勒は馬の目利きができたため、

それを買われて汲桑に仕える。

これで奴隷身分から脱出した。

 

石勒は汲桑に恩義を感じ、忠実に恩返しをした。

石勒は流賊まがいのことを行い、

略奪して、財宝や絹などを汲桑に献上する。

 

公師藩の挙兵

305年に司馬穎の宿将公師藩が挙兵。

汲桑はこの公師藩の軍に参加する。

もちろん石勒も一緒である。

公師藩は、

司馬越の弟司馬模が守る鄴を攻撃する。

 

305年の時点では、

司馬穎は皇太弟を廃されていた。

司馬穎が掌握していた中原・山東は司馬越に奪われ長安に逃亡、

司馬孚家の司馬顒に実権は奪われていた。

 

公師藩としては、

主君司馬穎の実権回復を狙って自力で挙兵したのだろう。

事実、この後司馬穎はこの公師藩の軍に長安から向かう。

全くの丸腰だった司馬穎は、公師藩のおかげで、

政治力を回復する。

吝嗇な司馬顒は司馬穎がまだ使えると判断したのだろう。

 

 

汲桑と石勒が何故公師藩軍に参加したのかはよくわからない。

関係があるとすれば、

司馬穎が304年の8月に鄴を奪われたのは、

幽州の王浚と并州の司馬騰に攻撃されたからである。

 

石勒は、この司馬騰の手の者によって、

突如拘束され、奴隷として売り払われた。

この恨みはあっただろう。

 

汲桑は、石勒といういわゆる武辺者を囲っている。

天下へ名を挙げたいという気持ちが生まれてもそれはおかしくはない。

汲桑自身も相当な腕を持っていた。

俺らが手を組めば、天下も取れる、といった気持ちか。

 

しかしながら、

公師藩の挙はうまくいかず、

最終的に濮陽で濮陽太守の苟晞(コウキ)に殺された。

(苟晞は後に兗州刺史となる。)

汲桑と石勒はうまく逃げおおせて、身を隠す。

 

結局、司馬穎勢力の復興は失敗し、

3068月に司馬越が政権を掌握した。

しかしながら、反司馬越勢力や異民族の反乱が勃発しており、

司馬越の支配は点と点をつなぐようなものであった。

 

汲桑の挙兵、先鋒は石勒 鄴の滅亡

 

307年今度は汲桑が旧公師藩の敗残兵を集めて挙兵。

大将軍と称す。

石勒はこの汲桑軍の前線都督となって、軍の先鋒を務める。

狙いはやはり鄴である。

 

この時点で、既に司馬穎は処刑されていた。

30610月のことである。

公師藩の挙兵があって中原での戦いに投じたが、

捕獲され処刑された。

 

このとき、鄴を守るのは司馬越の同母弟司馬騰である。

因縁である。

 

3075月司馬騰の派遣してきた馮嵩を撃退し、

石勒が先鋒を務める汲桑軍は、

そのまま鄴に侵攻。

 

司馬騰は鄴に赴任して、3か月程度。

伝わるところによると、あまりにも吝嗇過ぎて

鄴の民の人心掌握がうまくできなかった。

 

そのため軍をうまく動員出来なかった。

 

この汲桑・石勒軍の攻撃を受けた司馬騰は、

単騎逃亡する。だが、追手に捕らわれ司馬騰は殺された。

 

汲桑・石勒軍は、鄴に入城。

勝った異民族の軍卒への褒美は略奪である。

それが異民族の流儀である。

 

この軍勢に鄴は散々略奪され、

火をかけられ、灰燼に帰した。

 

曹操以来栄華を誇った鄴は、一旦ここに滅びる。

 

汲桑・石勒軍 司馬越の反抗を受ける

 

汲桑・石勒軍は、

鄴から南に黄河を渡って南下。

司馬越を攻撃しようとする。

 

驚いた司馬越は、

自身も出征し、苟晞を使って

3077月汲桑・石勒軍を攻撃。

 

 

汲桑・石勒軍は大敗。

汲桑と石勒は別々に逃亡する。

 

汲桑は30712月に司馬騰を慕っていた漢民族の流賊(乞活と言う)に

油断をしていたところを殺された。

 

石勒は、上党にいた異民族のところに逃れ、

死中に活を求める。

 

散々中原を荒らすだけ荒らした石勒は、

学びを得た。

この身を寄せた異民族に匈奴の劉淵の傘下に入るよう

説得。

石勒は劉淵の配下に入る。