歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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二代姚襄①東晋を離反するまで~羌族の仲良し姚氏~

高い結束力を誇る羌族姚氏。

これが羌族姚氏の強みである。

  

①姚弋仲(ようよくちゅう)

 

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②姚襄(ようじょう)

③姚萇(ようちょう)

④姚興(ようこう)

⑤姚泓(ようおう)

の五代である。

 

姚襄は、始祖姚弋仲の後を受ける二代目。

352年から357年とたったの5年が姚襄の代だが、

ここで、羌族姚氏の本領が発揮される、

 

●姚襄、劉備並みの人望

 

姚弋仲の三男である。

 

姚襄は父に忠実で、人望があり、戦いも強い、

羌族の英主である。

 

後趙崩壊後、姚襄は、

5万戸の羌族を引き連れ、各地を流浪する。

故郷と風土の異なる場所を放浪するのは苦労も多かったはずだ。

しかし離反するものはなかった。

姚襄も父姚弋仲に負けず劣らずの非常に人望のあった人物である。

 

姚襄はまず父姚弋仲の遺言通り、東晋に帰順をする。

 

羌族は姚弋仲の時に石虎の命を受けて徙民していた。

後趙の本拠、襄国近くの清河である。

 

後趙が崩壊し、姚弋仲が死去すると、

5万戸の民を引き連れて南下する。

東晋に帰順するためである。

 

5万戸というが、今風に言うと、五万世帯だ。

一世帯平均4人と仮定すると、

ざっと20万人の民を率いて姚襄は移動したことになる。

 

これは、

三国志において、劉備が劉表の死を受けて、南方に去るが、

その際に民が劉備を慕ってついていくというシーンがある。

この際の人数が10数万と言われている。

当然、正確な数字としては当てにはならないが、

姚襄のこの流浪が、

あの劉備の有名なエピソードとほぼ同じ状況であることが大事である。

 

姚襄はあの劉備に近い人望を持っていたわけである。

 

●父姚弋仲の遺命に従い東晋に帰順する姚襄

 

姚襄たち羌族姚氏は清河にいたとはいえ、

元々の遊牧生活を捨てたわけではなかった。

 

清河に定住しきっているわけではない。

だから、移動もしやすかったのである。

 

姚襄は黄河を南に渡河。

東晋の領域に迫り、投降する。

 

・姚襄帰順時点の東晋の状況

 

時は東晋の全権は会稽王司馬昱。

 

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司馬昱は清談の名士、殷浩を在野から登用して、

北伐を行わせていた。

 

荊州は、庾氏三兄弟から地盤を引き継いだ桓温が掌握。

 

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成漢討伐で一躍名を挙げた桓温だったが、

建康の重鎮方に警戒されていた。

桓温は荊州で鬱屈していた、という時代である。

 

司馬昱とすれば、殷浩をせっついて、早く北伐を成功させたい。

当然殷浩としても北伐を急ぎたいが、そうはいっても大した軍功もない、殷浩では、

手立てを考えようもなかった。

 

そこに来た姚襄の帰順(投降)である。

 

姚襄は東晋に帰順したとはいえ、

長江南岸の建康に行ったわけではなく、淮水以北に留められた。

 

東晋に警戒されたのだ。

異民族のいきなりの投降で東晋としても驚いたはずだ。

また、20万人以上の民を引き連れての投降である。

ひとつの国ごと動いてきたこの羌族の集団に長江を渡らせるのは、

抵抗感があった。

 

しかしながら、司馬昱、殷浩としては、

華北が混乱しているにもかかわらず、

異民族自体が戦いに強いので攻めあぐねていた。

 

それを異民族の一つである羌族が揃って投降してきたのである。

 

毒を以て毒を制す。

異民族を以て異民族を制す。

 

困っていた司馬昱と殷浩がこれを考えないわけがなかった。

 

 

●東晋の実態に失望する姚襄

 

東晋は姚襄をこの程度にしか考えていなかったので、

姚襄に対しての扱いは初めからよくなかった。

 

特にこの時代は、東晋が異民族に対するアレルギーで特に

異民族への差別意識が高かった時代である。

 

姚襄は、投降者の常として、

元々属していた勢力を攻める際に先鋒にさせられたのである。

 

姚襄の生年は不明だ。

弟で姚弋仲の第24子の姚萇は331年とされており、

姚弋仲の第三子である姚襄は何歳であろうか。

晋書では姚襄も331年とされているが、姚萇との混同であろう。

 

西晋を知らないと思われる姚襄。

一方、異民族の気質を大いに持ちつつ、

清廉潔白、直言を辞さない、忠臣と言える父姚弋仲。

 

姚襄が父として憧れ、頭領としても尊敬していた姚弋仲が、

石虎に仕えながらも、尊重していた東晋。

 

姚弋仲は遺言で姚襄に東晋が本来の中華の主である、

後趙崩壊したからには東晋に帰順せよ、との命を忠実に守った姚襄。

にもかかわらずの、この待遇。

 

姚襄はいたく失望したことであろう。

 

西晋の気質を継ぐ東晋としては当然なのだが、

東晋はとにかく内部の権力闘争が激しい。腐敗もしている。

間違いなく、姚襄率いる羌族集団の方が統率されていただろう。

心の中で

中華正統王朝としての東晋に対する

あこがれが募っていた姚襄としては失望しかなかった。

 

●352年殷浩北伐

 

殷浩は北伐を敢行する。

 

・苻健勢力を洛陽から排除するのに成功する殷浩

 

目標は西晋の帝都洛陽。

当時は、氐族の苻健が洛陽を持っていた。

(有名な苻「堅」とは字が異なる。苻堅の叔父が苻健である。)

 

氐族の苻健は姚襄が東晋領域に向かって南下するときに

攻撃を仕掛け、数万戸の民を殺されたという因縁を持つ。

 

殷浩は策略で洛陽を守る苻健の甥、苻莄眉を撤退させる。

殷浩は許昌まで進駐し、洛陽を取りにかかる。

 

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●姚襄の離反

 

しかし、

後趙から東晋に寝返っていた張遇が今度は前秦に寝返り一旦殷浩は撤退。

その後再度殷浩は洛陽攻撃を企てるも、

このタイミングで姚襄が反乱を起こす。353年10月のことである。

場所は譙周辺である。

 

これまでに殷浩は再三姚襄に刺客を放っていた。

必然の反乱であった。

 

20万人の民をリーダーである姚襄が、

東晋の権力闘争にマッチするわけがなかった。

 

殷浩は譙城に撤退するもさらに姚襄の攻撃を受け更に撤退。

姚襄は南下し、淮水沿いの拠点、盱眙(くい)を確保して、ここに駐留する。

 

この後殷浩は354年に桓温に弾劾され、失脚。桓温が北伐を担う時代が到来する。

 

 

 下記②に続く。

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●参考図書:

 

 

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

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歴史とは何か (第1巻) (岡田英弘著作集(全8巻))

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シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))

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