劉淵は劉豹の子ではない。 また匈奴本国で、左賢王として匈奴独立を推進した 大叔父劉宣は、於夫羅・呼廚泉の兄弟でもない。これは前項までの「劉淵出自の謎」で説明してきた。 ・まず劉淵は劉豹の子ではない。 ・劉宣は於夫羅・呼廚泉の兄弟ではない。すな…
++劉淵に匈奴独立の動機がない++ ++後漢末期の匈奴単于羌渠と同様に殺されかねない状況の劉淵++ 劉淵は親西晋、羌渠と同じ、親中華 ++やむなく自立する劉淵、促したのは左賢王劉宣の現実的な判断++ ++劉淵に匈奴独立の動機がない++ 劉淵のこ…
251年生まれの劉淵は、304年、すなわち劉淵53歳の時に、ずっと中華の中心中原にいたのを、鄙びた田舎の離石に移動して自立する。最晩年のこの大きな変動は個人の人生として幸せだろうか。そこまでして、部族を引き連れなければいけないものなのか。 ++劉宣…
●劉淵の本当の父 ●曹操が作った単于=人質、左賢王=エージェントモデルからの発展「単于自身が漢化する」 ●匈奴漢が中華風王朝であるのは劉淵存命まで。 これまで、曹魏、西晋の匈奴政策、 それに紐づく匈奴単于家の不透明な経歴、年齢について述べてきた。…
●劉豹にある謎。何故劉氏なのか。何故死没年が279年なのか。 ●劉氏庇護と匈奴単于家系譜の改竄 ●西晋にとって劉淵の存在意義 ●劉豹にある謎。何故劉氏なのか。何故死没年が279年なのか。 劉宣もそうだが、 私は匈奴という民族意識があるのであれば、 匈奴か…
年齢詐称は決して現代だけのものではない。 歴史上にもおかしな年齢というのは存在する。そこからわかる歴史の実態というのもある。今回は匈奴単于の秘密を年齢から暴く。
「劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎①」において、 劉淵の父劉豹と祖父於夫羅の親子関係に大きな疑惑があることを説明した。 ●於夫羅と呼廚泉の立場 ●曹操の匈奴統治政策。馬は覇業のキーファクター ここでは、まず劉豹の先々代の「単于」で「父」とされる…
劉淵の父は 本当に単于の家系なのか。 ●劉豹はどういった経緯で単于直系となったのか。 ●劉豹が単于に連なるには、父との年齢差が非常に問題 劉淵の父、劉豹という人物にフォーカスして考えたい。 劉淵の父劉豹は、匈奴単于の系譜から判断すると、 甥の匈奴…
●司馬保は、司馬越家の生き残り ●司馬保と司馬睿、対立。司馬睿の勝利 ●司馬保は、司馬越家の生き残り 司馬保は司馬越の四弟司馬模の子である。司馬馗家の一人であり、西晋最高権力者司馬越の血族である。司馬越は兄弟を大切にしたので、甥も同様だったであ…
●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 ●司馬越の後背地下邳を預かる司馬睿 ●司馬越の意向により建業の確保という使命を帯びる司馬睿 ――――――――――――――― ●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 司馬睿は、愍帝が匈奴漢に降伏して捕虜となった翌317年晋王となっている。…
この世の持ち主が存在しない異常事態: 飼い犬に手を咬まれた中華皇帝: 西晋東晋過渡期の311年ー318年、下記の重要事件が起きる。 ・司馬越病死⇒軍勢滅亡311年4月 ・懐帝 逮捕(洛陽陥落)311年6月 ・懐帝 処刑313年1月 ・愍帝 逮捕(愍帝、降伏)316年11月…
311年6月に西晋皇帝懐帝が、匈奴漢に捕らわれてから、 中華覇権争奪戦が始まる。 330年9月に石勒が皇帝となり、華北の覇者としての地位を確立するまで続く。 約20年の争乱である。 ①匈奴漢皇帝 劉聡=匈奴優先= ②石勒=異民族・漢人対等融合= ③西晋残党=…
西晋には、 事実上の滅亡やら、完全な滅亡やらいろいろな表現がある。 後に司馬睿が東晋を建国するのでさらにややこしい。 西晋の終止符がわかりにくい。 司馬睿は、建国したつもりはなく、晋を受け継いでいるので、 新しい国を作ったことにはならない。 当…
鄴は曹操が本拠地を置いた時から、 覇者の地としての歴史が始まるのである。 洛陽⇔幽州(北京)間の回廊、その真ん中に鄴はある。 (引用元:地図で訪ねる歴史の舞台 帝国書院 ※武藤加筆) ここ鄴を抑えることが華北の覇者としての条件となる。 覇者の地とし…
●曹操の本拠は鄴 ●鄴に本拠を置いたのは袁紹が先 ●鍾繇が曹操にとって極めて重要な人物であるその理由 ●洛陽が本拠ではダメなのか。 ●本来は鄴を中心に馬と中原を押さえれば中華統一だった。 曹操が鄴に本拠を置いたことは 案外と認識されない。 ゲームの影…