歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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307年12月司馬越、丞相になる~司馬越の逆襲 懐帝を傀儡にするという決意~

司馬越 VS 西晋懐帝 307年司馬越は、 中華の治安確保に時間を割いた。 が、懐帝に裏切られた。 307年12月丞相となる。 西晋においてこれは珍しい称号を使っている。 直近で丞相といえば、 魏の曹操、蜀漢の諸葛亮である。 両名とも丞相位に就いて、 文武の全…

司馬越 vs 懐帝 西晋の最終対立

懐帝の背信行為が最高権力者司馬越を 激怒させる。それは、司馬越自身の甘さと、懐帝の切羽詰まった事情が引き起こしたものだった。

産業革命以前は人間の数が権力の源泉。~八王の乱は人の数が物を言う~

産業革命以前は人の数がイコール権力である。八王の乱はそれが如実に表れた。 戦略も何もあったもんじゃない。

八王の乱が終焉した307年初頭 西晋各地の情勢について~四方を固める司馬越四兄弟、司馬睿の東晋独立の契機、懐帝の謀略~

307年初頭における、 司馬越兄弟を中心とした 西晋懐帝勢力と、その敵対勢力について。

司馬穎の不在が公師藩・汲桑の乱を生み、石勒という英雄を生み出す。

司馬穎の政治生命は、 301年4月の司馬倫の対賈后クーデターから頭角を現し、 304年8月鄴陥落、304年12月に皇太弟を廃されて、 事実上政治生命を終えてしまった。 司馬穎の命は、306年10月に終わる。 劉淵の雄飛 石勒の登場 石勒の生い立ち 公師藩の挙兵 汲桑…

八王の乱 簡潔に概説する。「漢民族文明の問題点が全て表出した乱」

八王の乱は難しくはない。 漢民族文明の問題点が全て表出した乱、それが八王の乱である。 表面的な言葉に囚われず、 一つ一つの意味と事象を考えていくと 非常に興味深いものになる。

八王の乱延長戦 司馬越 vs 懐帝司馬熾

恵帝がいない今、争乱は泥沼へ。 懐帝が泥沼の八王の乱延長戦を引き起こした。 司馬越は恵帝がいて乱が収まればそれでよかったのだ。

恵帝毒殺犯 懐帝司馬熾 〜動機の解説③〜 そして八王の乱は延長戦へ

恵帝暗殺の司馬熾の動機とは? 司馬熾は身の危険を感じずにはいられないほど危うい立場であった。

恵帝毒殺の真犯人は後の懐帝司馬熾~司馬熾の出自から辿る②~

ピックアップされない事実。 後の懐帝、司馬熾は相当に出自が低い。 忘れ去られた王、司馬熾が司馬顒によって政争の道具とされた結果、身に危険が及ぶ。

恵帝毒殺の犯人は後の懐帝司馬熾~①経緯から背景を知る~

恵帝毒殺の真犯人は司馬熾、後の懐帝である。

司馬穎の敗退が、匈奴劉淵・王浚の自立を促進。

西晋の内乱と異民族の自立。 王浚の自立。 異民族は匈奴、烏桓、鮮卑の登場。

304年は西晋に命運を決める年=西晋の終わりと異民族の台頭=

304年が西晋の命運を決める。 西晋の事実上の崩壊、 一方で匈奴を始めとした異民族の 分離活動が活発化する。

西晋恵帝を殺したのは司馬越ではない。

306年11月西晋恵帝が麦餅を食べてあたり死亡した。こんなマンガのようなことがあり得るのだろうか。 よく司馬越の仕業と疑われる。 しかし、恵帝が死ぬことで本当にメリットがあった人物がほかにいる。

304年8月司馬穎、鄴の失陥、305年7月司馬越挙兵

司馬越の逃亡、司馬穎の逃亡。 305年7月の司馬越の挙兵が 八王の乱を終わらせる。 【司馬越逃亡、司馬穎逃亡】 【鄴の掠奪】 【司馬穎の失脚】 【司馬越挙兵】 【司馬顒の反抗】 【司馬越、政権掌握】

304年7月蕩陰の戦い~恵帝親征の意味とその後~

蕩陰の戦いが西晋の運命を決める。 恵帝の親征の意味と、 司馬越の戦下手。