●軍閥の台頭は、王朝を滅ぼすもの。 ・後漢の例 ・西晋の例 ・唐も清も中華民国も同じ。 ●軍閥を抑制したい外戚庾亮 ●軍閥側蘇峻・祖約らの視点 ●執政庾亮と軍閥蘇峻の対立。 ・蘇峻の怒り。 ・庾亮の正論。 ●蘇峻の乱勃発。 327年から329年まで続く、 蘇峻…
313年豫州まで来ていた。 石勒の撤退により、 司馬睿政権は難を逃れた。 これにより事実上の東晋が成立する。 ●東晋、5つの勢力 ●東晋建国の元勲、王敦の乱 ●外戚庾亮の専権 ●蘇峻の乱。叩き上げの蘇峻に配慮しない庾亮が悪い。 ●329年に東晋内部がようやく…
●第一次王敦の乱 王敦が仕掛ける。 ●王敦は大将軍兼丞相、王導も司空から司徒へ昇進。 ●王敦病気になる。第二次王敦の乱 明帝派が仕掛ける。 ●王敦が潰されても、王導はまた昇進する。 王敦は、 王敦が軍権、 王導が朝廷をそれぞれ牛耳ることで東晋は確立し…
東晋の事実上の建国者は、 司馬睿でも、王導でもない。 王敦である。 この理由を説明したい。 ①王敦は実は司馬炎の婿 ②王敦は揚州刺史で直臣、王導は司馬睿の属官で陪臣 ③王敦は王導より年上: ④使える勢力は使うだけ使って捨てるのは王敦の策 ⑤王導が排斥さ…
王導ではなく、王敦が東晋を建国した。
瑯琊王氏の王敦は冷徹な政治家である。 相当に合理的な人物である。王導を超える存在。
●陶侃は東晋を代表する名将。 羊祜、劉弘を継ぐ。
●石勒の、石虎に対する高い信頼 ●石虎の主要な戦歴一覧: ●皇帝の受ける天命は直接の血の繋がりがないと継承できない。 ●石虎は一族ではあるが皇帝位を継げない。 ●中華皇帝、その厳しい条件 ●石虎、鄴を没収される。 石勒と石虎の間には、 ただ一族というだ…
英傑につきものの後継者問題。 石勒自身、高い能力を持っていたので、 その死後権力バランスが崩れる可能性は非常に高かった。 石勒がいなくなると、 たった一人の人物が突出してしまうのである。 ●石勒は晩年に中華統一必勝パターンを作り上げた: ●石勒の…
事績のわかりにくい石勒。 石勒についてできるだけ簡潔に記したい。 ①石勒、三つの史上初: ②石勒の生まれ: ・石勒が生まれた時代: ・出身民族: ③流浪の民から奴隷へ: ④世に出る: ⑤反司馬越: ⑥劉淵のもとへ: ⑦各地転戦: ⑧旧司馬越軍を殺戮する。 ⑨西…
318年3月に東晋は成立する。 ●江南は王導。 ●王導の巧みな政略。 ●江州・荊州は王導との関係の深い王敦が調略。 それは、必然ではなかった。 江南がまとまっていたから 司馬睿は皇帝になれたのである。 司馬睿は、ライバル司馬保を 押しのけての即位であった…
司馬睿は司馬越の指示で、江南は建業にやってきた。 ●八王の乱の勝者司馬越、懐帝に足を引っ張られる。 ●西晋が滅亡へと向かう中やりくりする司馬睿ら。 ●司馬睿の下、実働するのは王敦と王導 ●司馬睿が皇帝になれたのは、王敦と王導のおかげ。 まとまりがつ…
東晋の成立は、 318年3月の司馬睿の皇帝即位である。 311年6月に匈奴漢が洛陽を陥落させ、 西晋皇帝懐帝を拉致してから、 約7年後である。 ●司馬睿に西晋皇帝を主張できる資格はない。 ●司馬睿よりも西晋皇帝を主張できるのは司馬保。 ●司馬保は司馬睿が皇帝…
307年に 司馬越の指示の下、 やってきた、司馬睿こと後の東晋元帝、王導。そして王敦である。 ●司馬越の指示で江南にやってきた司馬睿 ●八王の乱の影響で江南も反乱が起きていた。 ●永嘉の乱の序章 司馬睿は司馬越の支援が受けられない。 ●江南土着勢力の周…
影の薄い東晋元帝司馬睿。 ①では、司馬睿は時の名家に生まれながらも、 父の早逝と祖父母の叔父への偏愛により、本来なら、 一族を率いる立場になるはずが、そうならなかったことを記した。 ●賈后派に付く司馬睿。 ●司馬越との縁 ●司馬睿は司馬越の指示で、…