歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

謝安を6つの視点から批判する②土断と清談

前回は序文の位置付けで

謝安批判文を述べた。

 

今回はより具体的な反論文を載せたい。

6つの批判ポイントのうち、2つを挙げる。

 

 

繰り返しになるが下記文面を再掲する。

 

●謝安を批判ポイントの引用文

 

「中華の歴史05 中華の崩壊と拡大」p129ー130にかけての文章を引用をする。

丸数字ごとに反論の余地がある。

※下記の文章が悪いというのではなく、

これが謝安に対する歴史的な定評である。

論調は王道であることは強調したい。

※丸数字は引用者の追記である。

 

↓引用文ここから

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「①

ところが、武勲を背景にして東晋の実権を握り、

北来の人々を江南の戸籍につける土断の実施など内政の改革に努めるさなか、

365年(正確には364年。引用者注)鮮卑族が建国した前燕に洛陽を奪われるという事態が生じた。

 

そのため桓温は再び北伐を敢行するが、今度は一敗地にまみれ、

かろうじて徐州に帰還したものの、かえって鮮卑族の前燕、

氐族が建国した前秦の南侵を生み、

その勢威を大きく傷つけられることとなってしまった。

 

②ここに至り桓温は王朝簒奪を急ぐが、

このとき東晋を救ったのが東晋後半期の名宰相である謝安であった。

 

謝安は陳郡陽夏の出身の名族であり、

若くして王導に知られたほどの人物であったが仕官せず

 

会稽にあった別荘で書聖として著名な王羲之や老荘思想に基づく

清談仏教の実践者として知られる仏僧支遁などと交わり、」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

↑引用文ここまで。

 

この①と②に対して、反論をしたい。

 

●①に対する反論〜土断を拒否したのは謝安ら貴族名族〜

 

 

そもそも桓温の土断が遅れたのは、

漢晋春秋などの東晋内の反桓温論調のためである。

漢晋春秋は、反桓温勢力、つまり貴族名族の批判論文である。

 

●漢晋春秋

 

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そのために桓温は東晋国内に足を引っ張られ、

前燕の侵攻を許す。

 

洛陽を前燕に奪われる一ヶ月前に

ようやく桓温は土断を実現。

 

これが結論である。

 

脅威が現実になってようやく、東晋内に危機感が醸成されたから、

実行できたのである。

 

桓温は二度の北伐で、

自身が荊州の軍勢しか率いることができないことの限界を感じていた。

 

長安は包囲するも落とせなかった。

洛陽は姚襄との死戦を制して、

落としたが、それ以上は進めなかった。

 

桓温は手持ちの戦力で工夫をして華北を攻めていた。

その工夫が電撃戦である。

 

しかし、東晋が国家として総力を挙げていないのだから、

華北の異民族国家を滅ぼすまでには至らない。

 

それで第二次北伐以降は、

東晋内部で政治闘争に入る。

 

それは、桓温が北伐を成功させたいがためであった。

しかし、それは、貴族名族たちが信用ならない

東晋皇帝、東晋政府に自身の私有地など私有財産を拠出することにほかならない。

 

ここで対立軸が生まれるのである。

 

貴族名族たちの気持ちも分からなくはない。

 

だが、桓温の視点から見れば、

桓温の足を引っ張ったのは、間違いなく謝安をはじめとした貴族名族である。

 

●桓温の電撃戦

 

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●桓温の庚戌土断(こうじゅつどだん)

 

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●東晋を作ったのは王敦である。→東晋は建国当初から皇帝と貴族名族たちの折り合いが悪かった。

 

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●②の反論〜清談の名士は褒め言葉ではない〜

 

謝安が40歳になるまで仕官しなかったのは、

後漢楊震の真似かもしれないが、

そもそも国難の最中に優秀な人材が仕官しないというのは

褒められたものであろうか。

 

その間何をしていたかと言えば、

同じく貴族名族で瑯琊王氏の書聖・王羲之と交わる。

清談の士と交わるとあるが、

清談で名を知らしめた殷浩が無用の人材であったのは

史実である。

 

後の簡文帝司馬昱は

清談の名士として知られて世に出たが、

後に桓温に主導権を握られている。

そして、最後には皇帝になった司馬昱はその死後、

亡国の皇帝として謝霊運を始めとして貴族名族たちに

批判されている。

 

清談は貴族の嗜みとしては大事なのだろうが、

政治的名士かどうかにはすでに関係がない。

 

魏末西晋初には最先端の考え方だったかもしれないが、

西晋末にはただの哲学論議へと清談は変化していた。

それは現実の政治には全く寄与せず、

清談に当時の高位層が耽っていたことで

西晋は滅んでしまった。

それは石勒による、清談の名士王衍批判が端的に示している。

 

・石勒の王衍批判

 

王衍は石勒に軍勢を攻撃、そして破れ捕縛される。

 

王衍は石勒に向かって言い訳をする。

西晋の滅亡は必然である、自分のせいではない。

石勒の勝利は天命であり、皇位に即くべきだと。

 

これに対して石勒は当時太尉という最高官職の一つについていた

王衍に向かって、

「天下が破綻したのに、汝に責任がないと言ったら、一体他の誰にあるというのか」

と言い放っている。

 

 

前後の経緯は、

下記を見て欲しいが、

●石勒の中華戦記②

 

 

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王衍は当代並ぶもののない清談の名士である。

なお、王衍は竹林七賢のひとり王戎の従兄弟であり、
彼らは瑯琊王氏の一員である。

 

彼は官職に就くことを常に拒否し、

清談に耽る。

この当時の清談は、現代の我々の感覚からすると

哲学に近い。

 

官職に就くことを、俗世に関わることとして断る。

しかし、結局はその誘いに抗うことなく、

官職に就く。

 

王衍は、当時最先端の思想、清談の名士で、

竹林七賢王戎と同族、

それもこの一族は、東晋の王導と同じ、

名族を代表する瑯琊王氏であるのだから、

位は何もせずとも上がっていく。

 

しかしながら、

最後は、八王の乱および永嘉の乱という西晋滅亡という結末を迎えた。

 

これは王衍が天下に責任がありながら、

清談に耽り、

政治という俗世に関わるべき身分にありながら、

それを拒否したからである。

 

このようにして、

清談の名士であることは、

文化史の中では褒められたものであるが、

政治史の中では決して褒められたものではない。

 

謝安が清談の名士であったことを挙げて、

政治の表舞台に立った時点で、

彼には大した俗世の実績がないことを明確にしているのである。

 

●参考図書:

 

魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

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中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

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