歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

桓温擁護論=嘘だらけの西晋・東晋の歴史=

岳飛を超える桓温。

これが、

桓温の実態、その結論である。

 

南宋の英雄、岳飛を超える実績を持つ桓温、

虚構に満ちた西晋・東晋の歴史をなぞることで、

この結論を明確にしたい。

 

 

●嘘だらけの西晋・東晋史

 


桓温は、

権力者としての専横を批判される。

 

しかしながら、

実態は、

東晋政府に足を引っ張られがちで、

邪魔をされた。

 

 

そもそも、大変残念な話であるが、

西晋、東晋の歴史というのは偏見に満ちている。

 

〈恵帝毒殺犯の嘘〉

 

例えば、

西晋恵帝の死に関しては、

司馬越の毒殺説があるが、

これは全くの嘘である。

犯人は、後継となった懐帝である。

 

●●西晋恵帝毒殺犯は懐帝だ。

 

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〈司馬越、石勒討伐の嘘〉

 

司馬越は後に懐帝と対立する。

その後帝都洛陽から軍を率いて、

司馬越は石勒軍の討伐に出かけたとされる。

が、これも虚構である。

司馬越は江南にいる司馬睿の元に逃げようとしたのだ。

そもそも行く方向が異なる。

司馬越は南東に向かうが、石勒がいたのは南だ。

その間には山地が横たえており、大軍が通る道でもない。

 

さらにその当時の石勒は、

司馬越が敵対する匈奴勢の中では、

少数の軍で非主流派である。

わざわざ西晋最高権力者司馬越が

10万の軍勢を率いて戦いに行く相手ではない。

司馬越の歴史から見ても、

石勒の歴史から見てもわかることだ。

 

●●司馬越、江南に向かう。

 

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後世、石勒が後趙皇帝として華北を制覇したことを知る者が

脚色したものである。

 

この後永嘉の乱が勃発、西晋は滅びるが、

晋の復興として東晋が成立する。

 

〈王導の助言が東晋を作ったという嘘〉

 

宗族の司馬睿が皇帝になる。

 

この司馬睿が江南に行っていたのは、

瑯琊王氏の王導が助言したからだと言われる。

しかしその実態は、

307年時点の最高権力者司馬越が、

司馬睿に指示をして赴かせたに過ぎない。

 

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〈王敦の乱の嘘〉

 

東晋の成立に王導が尽力したとされるが、

その実態は、のちに乱を起こした王敦の成果である。

司馬睿が江南に赴任する時点での、

江南におけるNo.2は

西晋皇帝司馬炎の婿で揚州刺史王敦であった。

王導が司馬睿のNo.2として描かれるが、

これも事実ではない。

 

王敦は乱を起こすがそれは

事実上東晋を成立させた王敦を、

元帝司馬睿が排除したからであって、

王敦には理由がある。

専横したかったからではない。

 

 

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〈蘇峻の乱、蘇峻にも大義あり。〉 


さらに蘇峻の乱さえも、

虚飾がある。

そもそも、蘇峻の乱は、

宗族同士の争いも孕んでいて、

権力争いとの関連もある。

 

そして、

ただの軍人の爆発でもなかった。

蘇峻としては、

独自に軍を作って戦ってきたにも関わらず、

無下にも庾亮が

軍権を取り上げようとしたものである。

力の弱い東晋政府が蘇峻の軍閥化を恐れ、

処置した対処が反乱を生んだのだった。

 


このようにして、

西晋、東晋の歴史は虚飾に満ちている。


何とも、調べ甲斐のある王朝と言える。

その分非常に面白いのだが。

 

そして、

桓温も多分に漏れず、

悪人ではなく、

中華王朝のあるべき姿を

取り戻そうと尽力した人物である。

 

そもそも、

歴史上、悪く書かれ過ぎている人物は、

その裏に真実が隠れている。

それは誰かにとって都合の悪いことであるが、

その人物を賞賛すべき内容が隠れていたりする。

 

これが歴史の面白みの一つだと私は思う。

 

●桓温の成漢征伐は何故覆い隠されているのか。

 

桓温だが、

まず成漢の討滅に関しては、

賞賛されるべきである。

 

たったの1万人で電撃戦を仕掛け、

蜀と漢中の制圧に成功した。


これは大変な成果である。

北に後趙石虎の脅威を見据えながらの

敢行であった。

 

司馬昭が263年に劉禅の蜀漢討伐を行った際の、

動員兵数は20万弱である。

それに比べて、

たったの1万人で

蜀の成漢を制圧したのが

桓温である。

 

それもたったの4ヶ月である。

桓温は、

346年11月に兵を起こし、

347年3月には成漢を滅ぼす。

 

快挙である。


しかし、このような人を驚かす、

大成果、快挙は

当然、いつの世にも批判が巻き起こる。

 

「これは暴挙である。

その間に

石虎の攻撃があったら、

荊州を失陥するどころか、

東晋自体の存続に関わる事態になった可能性もあるではないか!」

 

桓温のような勇気ある行為ができないにも関わらず、

朝廷でぬくぬくと自らの立場を守りたい、

そのような人間はこう批判する。

 

しかし、

人間の行為というのは、

実行したことだけが

他人から賞賛される。

 

桓温の成漢征伐は

紛れもなく快挙である。

 

当時成漢が混乱したからといっても、

それを分析するのは誰にでもできる。

その上で、成漢征伐を

実行できる人間はそうはいない。

 

賞賛されるべき桓温が、

この後警戒される。

これが東晋の実態、本性であると。

 

東晋は、

高位につく人たちの、

名門意識が高く、

新しいことをする人物を嫌う。

 

これは中華においては、

軍事軽視につながる。

 

貴族名族層が儒教信奉だからである。

 

儒教の経典を修得しそのように行動した人たちが

称賛されるのが、

この時代の風潮である。

 

それはどうしても、

文尊武卑になりがちである。

 

そもそも、中華の王道は、

騎馬に乗る異民族を嫌うものである。

西晋征呉の時の荊州都督で、

春秋左氏伝の研究家として名を残した、

杜預は決して

馬には乗らなかった。

 

武を卑しみ、文を尊んだ。

 

軍事など卑しいこと、卑しい者がするもの、

という印象が強い。

 

けれども、

中華正統王朝である東晋が

中華全土を支配していないという状況は事実としてある。

華北や蜀に跋扈する異民族を討滅すべしというのは

儒教の概念として絶対命題である。

 

これが東晋の名族たちが抱えるジレンマであった。

 

それを桓温はまず一つやってのけたのである。

 

桓温の成漢征伐に関して、

東晋建康政府に属する大半の人たちの

嫉妬は途轍もないものだった。

 

自分ができないことを人にされると、

嫉妬してしまうのが人間である。

 

桓温が成漢を征伐したという事実すらも、

消し去りたい。

 

とにかくケチをつけまくったのが事実である。

 

これにより、

後世の我々ですら、

この桓温成漢討伐を知るには、

少々調べる必要がある。

 

もしも、

孫権が劉禅の蜀漢を滅ぼしていたら、

こうはいかないはずだ。

 

桓温はこうして、既に347年の時点で、

手荒い洗礼を受けていたのである。

 

●南宋の英雄岳飛を上回る桓温の軍功

 

 

桓温は、

この後、北伐を敢行、

中華の歴史ある都、

長安を包囲、

洛陽の奪還と、

まさに東晋理想通りの北伐を実行する。

 

しかしそれでもこの事実さえ、

紐解くのに時間がかかる。

この事実で、

桓温は南宋の岳飛を越える存在なのがわかる。

 

岳飛は旧都開封に迫る勢いだったが、

包囲、奪還にまでは至らなかった。

 

しかし、桓温は

長安を包囲までし、その後洛陽を攻め、陥落させている。

 

〈岳飛に比して政治力がある桓温〉

 

政治力も桓温の方が上である。

 

南宋の岳飛は北伐を敢行し、

北宋の旧都開封に迫る勢いだったが、

包囲するまでは至らなかった。

これは岳飛が南宋丞相秦檜(シンカイ)に足を引っ張られたからである。

 

一方、

桓温は北伐の最中には、

東晋建康政府から足を引っ張られることはなかった。

見えにくい実績だが、

これは

桓温の政治力である。

岳飛を知る人は多いが、桓温を知る人は少ない。

だが、桓温は岳飛を越える。

これが事実である。

 

桓温は、この政治力を活かす。

二度の北伐の後、

国力の増強のために、363年に大規模な土断を実行する。

流民を戸籍に入れ税収を増やすためだ。

 

名目は北伐の実行なのだから、やむを得ないと考えた人も多かった。

 

この土断は非常に大規模なものだった。

東晋建国以来50年弱、

王導や庾亮ら

最高権力者がやりたくてやれなかった、

誰もが成し得なかったことを

桓温は実行したのである。

 

●桓温の第三次北伐失敗の要因は諸葛亮と同じロジスティックス

 

そして、

369年、満を持して北伐を実行する。

桓温は相変わらずの速攻で、

黄河河畔まで辿り着くも、

ロジスティックスが追い付かない。

 

ロジスティックスとは、兵糧の輸送のことである。

 

袁真が運河の開鑿などがうまくいかず、

失敗したとされる。

 

ただ、これは桓温は速攻型の戦略を取るのだが、

これが広大な華北においては、通じなかったというのが実情だろう。

 

力不足というのはやむを得ないし、

前向きに戦った結果である。

大敗であったが私は擁護すべき内容と思う。

 

ロジスティックスの問題は、

蜀漢の諸葛亮も悩まされている。

兵糧不足で撤退するのは一度ではない。

さらに意図的に尚書令李厳に兵糧供給をストップされ、

成果を挙げられる寸前で撤退させられたことすらある。

 

桓温だけの問題でもない。

 

しかし、

長年嫉妬に渦巻いていた東晋建康政府は、

そのような桓温を許さなかった。

 

この第三次北伐の失敗で桓温を叩く。

 

これに対して、

桓温は諦めなかった。

 

●北伐失敗後の桓温のリカバリーショット

 

名族にされるがままの、29歳の東晋皇帝司馬奕を廃して、

51歳の司馬昱を皇帝に即ける。

 

これをもって、史実は

桓温が権力を強化しようとしたとされる。

 

しかし考えていただきたい。

上記プロフィールをみて、

29歳の皇帝と、51歳の皇帝。

果たしてどちらが、言いなりにしやすいのだろうか。

 

桓温が皇帝のすげ替えをしたのは事実だが、

この皇帝の廃替をもって、

桓温が専横を強めたかったというのは間違いである。

 

51歳の皇帝の方が言いなりにしにくいに決まっている。

 

ここに、またもや西晋・東晋の虚構の歴史がある。

 

司馬昱は、

長らく桓温を抑制しようとしてきたとされるが、

これは間違いである。

 

東晋建康政府において、

桓温を支援しつつ、名族たちとバランスを取ろうとしてきたのが、

司馬昱であった。

 

桓温が外征を行うにあたり、

東晋建康政府に支持者がいない限り、実行するための許可が取れない。

それを外地にいる桓温に成り代わって実行してくれる人が必要なのである。

それが司馬昱なのである。

 

そのぐらいの信頼関係がなければ、

ここで51歳の皇帝を実現するなどは絶対にできない。

 

桓温は北伐の支持者司馬昱を皇帝にして、

再度の北伐を実行しようとしていたのである。

 

桓温はたしかに東晋政府に反対をされていたが、

方々で桓温支持=北伐支持者が多々いたのである。

 

しかし、

簡文帝司馬昱が在位1年にして崩御、

さらに桓温も後を追うようにして、世を去り、

再度の北伐は果たせなかった。

 

この後、権力を握るのは、

謝安を中心とした、

北伐反対派の名族たちである。

 

後に台頭する劉裕は、

桓温の苦労を反面教師としたか、

名族たちを抱きかかえることにした。

 

そうして、桓温の実績は覆い隠されることになる。

 

これが東晋、それ以降の南朝の在り方となる。

 

虚構の歴史は、西晋、東晋だけではなく、

南朝に連綿と受け継がれてしまうのである。