歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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①匈奴漢の祖劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~劉淵の父と祖父の関係に疑惑がある~

劉淵の父は 本当に単于の家系なのか。 ●劉豹はどういった経緯で単于直系となったのか。 ●劉豹が単于に連なるには、父との年齢差が非常に問題 劉淵の父、劉豹という人物にフォーカスして考えたい。 劉淵の父劉豹は、匈奴単于の系譜から判断すると、 甥の匈奴…

後の東晋元帝司馬睿よりも本来は皇位に近い存在、司馬保

●司馬保は、司馬越家の生き残り ●司馬保と司馬睿、対立。司馬睿の勝利 ●司馬保は、司馬越家の生き残り 司馬保は司馬越の四弟司馬模の子である。司馬馗家の一人であり、西晋最高権力者司馬越の血族である。司馬越は兄弟を大切にしたので、甥も同様だったであ…

司馬睿は司馬越の副将格 瑯琊王氏の王導は司馬越の目付〜西晋東晋過渡期の311年ー318年〜

●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 ●司馬越の後背地下邳を預かる司馬睿 ●司馬越の意向により建業の確保という使命を帯びる司馬睿 ――――――――――――――― ●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 司馬睿は、愍帝が匈奴漢に降伏して捕虜となった翌317年晋王となっている。…

317年12月から318年3月まで中華皇帝というこの世の持ち主が存在しない大変な異常事態が起きる。

この世の持ち主が存在しない異常事態: 飼い犬に手を咬まれた中華皇帝: 西晋東晋過渡期の311年ー318年、下記の重要事件が起きる。 ・司馬越病死⇒軍勢滅亡311年4月 ・懐帝 逮捕(洛陽陥落)311年6月 ・懐帝 処刑313年1月 ・愍帝 逮捕(愍帝、降伏)316年11月…

三つ巴の中華覇権争奪戦が311年6月から始まる。~永嘉の乱以後~

311年6月に西晋皇帝懐帝が、匈奴漢に捕らわれてから、 中華覇権争奪戦が始まる。 330年9月に石勒が皇帝となり、華北の覇者としての地位を確立するまで続く。 約20年の争乱である。 ①匈奴漢皇帝 劉聡=匈奴優先= ②石勒=異民族・漢人対等融合= ③西晋残党=…

西晋 滅亡の年はいつなのか。

西晋には、 事実上の滅亡やら、完全な滅亡やらいろいろな表現がある。 後に司馬睿が東晋を建国するのでさらにややこしい。 西晋の終止符がわかりにくい。 司馬睿は、建国したつもりはなく、晋を受け継いでいるので、 新しい国を作ったことにはならない。 当…

鄴の東を下にして地図を見る~覇者の地・鄴~

鄴は曹操が本拠地を置いた時から、 覇者の地としての歴史が始まるのである。 洛陽⇔幽州(北京)間の回廊、その真ん中に鄴はある。 (引用元:地図で訪ねる歴史の舞台 帝国書院 ※武藤加筆) ここ鄴を抑えることが華北の覇者としての条件となる。 覇者の地とし…

洛陽よりも鄴 曹操に始まる中原の覇者の都・鄴~鄴の歴史⑦

●曹操の本拠は鄴 ●鄴に本拠を置いたのは袁紹が先 ●鍾繇が曹操にとって極めて重要な人物であるその理由 ●洛陽が本拠ではダメなのか。 ●本来は鄴を中心に馬と中原を押さえれば中華統一だった。 曹操が鄴に本拠を置いたことは 案外と認識されない。 ゲームの影…

鄴エリア 中華王朝の帝国化が鄴エリアの内地化を推進する ~鄴の歴史⑥ 秦から後漢まで

●秦の勝利: ●漢による中華統一: ●秦の勝利: 秦、趙、斉の三つ巴の戦いは、 秦の勝利に終わる。 高い文化、文明、 騎馬、 法制度、 優秀な人材、 肥沃な大地 これが全て揃ったのが 秦だった。 一番の違いが、法制度による統治なので、 これがピックアップ…

鄴エリアの隆盛~鄴(邯鄲)エリア⇔山西高原モデルで戦国趙は秦と最後までやりあう。~鄴の歴史⑤ 戦国時代後半

●戦国時代は、秦・趙・斉による三つ巴の戦い: ●秦、趙、斉以外の戦国七雄: ●燕: ●楚: ●韓: ●魏: ●戦国時代は、秦・趙・斉による三つ巴の戦い: ※戦国趙における「鄴」エリアは邯鄲のことである。 趙は邯鄲の南に長城という名の防壁を築いていた。 その…

鄴エリアの勃興~戦国趙の強みに気付いた武霊王~鄴の歴史④ 戦国時代

●戦国時代 都市国家の発展 ●鄴エリア(趙は邯鄲)と山西高原のアクセス 馬がものを言う。 ●戦国時代 都市国家の発展 春秋時代の末期は、 江南の呉と越が強かった。 鉄が産出され、 軍事的にも農耕的にも大きな影響を及ぼしたからだ。 それまでは青銅器である…

鄴エリアの復活は晋の趙鞅と魏の西門君の手による。~鄴の歴史③

●周王の権威を排除しきれない鄭荘公 ●春秋時代の秩序維持の枠組を作った斉の桓公、それを受け継いだ晋の文公とその子孫。 ●晋により、鄴エリアの重要性が復活する。 ・鄴 ・邯鄲 ●都市と都市という、点と点を複数保有することから、国家としての体を成してい…

「鄴」エリアの埋没~周王朝における国家観醸成過渡期の中で~鄴の歴史②

●鄴の没落~周の時代に国家観が醸成された~ ●「周」という仲間意識 ●両王都制(複都制)の効果 ●抽象的概念「周」という権威の誕生 ●鄴の没落~周の時代に国家観が醸成された~ 長らく中原及び山西高原の覇者として君臨していた 商王朝。その中心は「鄴」エ…

「鄴」エリアの重要性は商王朝から~鄴の歴史①~

鄴エリアの重要性は商王朝が本拠を置いたことから始まる。 ここは、中原と山西高原の結節点であった。商王朝は、山西高原の出身である。

司馬炎の生き方はディオニュソス的である

司馬炎はディオニュソス的な生き方を志向した皇帝である。 ディオニュソス的=快楽主義。