歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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三国時代

司馬懿の、諸葛孔明第四次北伐撃退を功績と見るか。

地は喪わず、人を喪う。 というのが、第四次北伐に対する司馬懿の評価と私は見る。 功績は功績だが、誇れる功績ではない。 魏という国家の視点から見ると、 蜀戦線は押され気味である。 一旦は隴(天水郡方面から西。長安から見て西に隴関を越えた先。祁山の…

諸葛孔明の北伐を守りきった曹真

司馬懿、諸葛孔明の第四次北伐(231年)のときに 死去した曹真の後任となる。 ようやく、司馬懿が具体的に活躍することになる時期に差し掛かる。 時に司馬懿、52歳。 曹操以来の元勲が大勢居並ぶ魏という国は、人材の層が厚いとも言える。 ここに至るまでの…

司馬懿の「専守防衛」~ダイナミックな戦略の諸葛孔明「後期」北伐~

231年2月から諸葛孔明の第四次北伐が開始される。 ーーーーーーーーーーーーーーー 漢中から魏を攻撃するには以下の7つのルートがある。 ①祁山経由 ②故道・大散関・陳倉経由 ③褒斜道・陳倉経由 ④褒斜道・五丈原経由 ⑤太白山(海抜3767メートル)をかすめ…

「北伐」諸葛孔明の現実的な戦略立案と、適宜着実対応の曹真

着実、現実的、確実な戦略目標を持って組み上げていく、 諸葛孔明の北伐。 諸葛孔明の蜀魏の彼我の分析の結果と私は見る。 鍵は騎兵を沢山持つ異民族の保有にあった。 漢中から魏を攻撃するには以下の7つのルートがある。 ①祁山・隴経由 ②故道・大散関・陳…

【二つの解釈】魏文帝曹丕の中都の地への移住策

岡田英弘氏の説によると、 魏は中都の地を定めて、民を強制移住したという伝えている。 しかしそうではなくて、 魏は中都の地を定めたうえで、中都への移住を許すということにしただけ、 という話がある。 岡田氏の説は 魏をはじめ、蜀・呉の三国は、 強制移…

魏晋の録尚書事について

魏晋期によく見られるのがこの 「録尚書事」という役職だ。 これに任じられると権力のトップに位置づけられる。 この録尚書事というのは、 尚書(漢の武帝のときに新設)を管理する。 尚書とは皇帝への上奏を取り扱う。 録尚書事の「録」は元々「領」であり…

魏明帝曹叡は親政を希望〜曹叡即位の経緯〜

226年の5月に魏文帝曹丕は崩御した。 40歳であった。 後継者は曹叡である。魏明帝となる。 曹叡は皇太子ではなかった。 曹丕は本当は曹礼という曹叡の異母弟を後継者にしたかった。(「魏略」) 理由は、 ・曹叡は皇后甄氏の子であったからだ。 甄氏は221年…

魏の基礎を作ったのは、名君魏文帝曹丕。

存在が隠れがちな帝王、曹丕。(187年ー226年。在位220年ー226年) 三国魏の開祖である。 私は名君の一人だったと主張したい。 この曹丕が魏の基礎を作った。 曹丕のスタンスが後年に影響を及ぼす。 父曹操の陰に隠れがちで、 治世も6年と短くあまりフォーカ…

曹操の「武帝」という諡号は不孝か 。

曹丕が父曹操に対して、 曹丕自身が文帝に対して、 曹操が武帝になっているということは 不孝だという話がある。 諡号の中で「文」が最良という考え方だが、 私はこの時代には既に「武」が 最良であったと主張する。 この曹丕の不孝というのは、 周の文王と…

司馬懿、魏明帝曹叡から遠ざけられる。

魏文帝曹丕から、 多大な信任を得た司馬懿。 しかし不思議なのは、 曹丕存命中には司馬懿自身は わかりやすい実績を挙げていない。 西晋で奏でられる歌の歌詞に出てくる、 司馬懿の事績は孟達叛乱の鎮圧から。 それは魏文帝ではなく、 次代の魏明帝の時代だ…

魏文帝曹丕から前漢の名臣蕭何になぞらえられた司馬懿

曹丕の言葉: 「私が東方に向かうときには、 撫軍(司馬懿のこと)は 西方のことを統括せよ。 私が西方に向かうときには、 撫軍は東方のことを統括せよ」 魏文帝曹丕の信任を得ていた、 司馬懿は、漢魏革命により、 陳羣とともに 魏王朝のトップとなる。 225…

魏の礎を創った魏文帝曹丕・陳羣、そして司馬懿

三人の共通点は何か。 私は曹丕・陳羣・司馬懿の三人ともが 非常に厳格な家に育ったことを挙げたい。 このため、三人ともが、 他人に非常に厳しいことを主張したい。 これが魏王朝の政治が、苛烈であったと評価される。 魏末晉初によく出てくる表現だ。 寛恕…

司馬懿を引き立てたのは魏文帝曹丕だ。曹操ではない。

司馬懿の経歴を事実からたどり、人物像を追いたい。 ●179年に生まれる。司馬防の次男。本貫(本籍地)は河内郡温県。(洛陽から北に黄河を渡った先にある。) 「八達」の一人。字は仲達。 ●201年 宮仕えを始める。 荀彧の推薦。 荀彧が推薦した人物はほかに…

司馬懿・司馬師・司馬昭に大義名分はないという考え方

司馬懿父子(司馬懿とその子司馬師・司馬昭)の 悪名高さ。 なぜそうなったか、 大義名分から考えたい。 ●なぜ悪名高く描かれるのか。 結論としては、西晋より後の王朝が、 漢(前漢・後漢)を基礎にした歴史観・大義名分を持っているためである。 3つの軸で…

司馬懿・司馬師・司馬昭の事績から紐解く「悪行」

司馬懿・司馬師・司馬昭は何故 評判が悪いのか。 事実から紐解く。 下記3点は批判される点はある。 つまりは権勢家としてうまく行き過ぎたということだ。 ●司馬懿 曹爽一派の打倒。 このとき郭太后を利用。(郭太后は魏明帝の皇后) 身の危険があったとは言…

鮮卑と烏桓~三国志から西晋時代まで~

匈奴が勢力を保っていた間は、 鮮卑・烏桓共々匈奴に服属していた。 しかし、匈奴の南北分裂など、 で独自の動きが出てきた。 そんな鮮卑・烏桓を 後漢は傭兵として活用。 匈奴の征討作戦に利用する。 鮮卑・烏桓はまさに 反復常ない状況で 今日は後漢に従え…

黄河流域をめぐる曹操の動き

黄河や泰山の位置をしっかりと確認しようと思ったのは、 曹操の事績をたどるうちに初期の曹操が 兗州周辺を縦軸に動いていると感じたためだ。 地図を見ているとちょうど東の泰山山麓に縦に動いている。 また大雑把に言うと西にずっと向かうと洛陽だ。 そのエ…

漢民族の理想のストーリー~曹操・司馬師・司馬昭は許せない~

◆後趙の石勒 「曹孟徳や司馬仲達父子のように、孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」(晋書?) ◆東晋の明帝 王導から司馬昭・司馬炎の簒奪の経緯を知り、顔を覆って「もし公の言った通りなら、どうして(晋の)皇祚を…

三国志・魏の人口対策について

まずは曹操の異民族討伐。 烏桓を討伐(206年)、中原へ移住させる。 袁煕・袁尚兄弟の追撃の結果ではあったが、 人口増・兵力の増強に役に立った。 その後、岡田英弘氏によれば、魏文帝の221年、 北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は郯、西は宜陽に …

三国志における人口対策は「人さらい」

~人口対策は人をさらってくることだった~ いわゆる中国と言われる地域は、この時代人口が過酷なぐらい減少した。 三国時代には、 人口が8分の1に減少。凄惨と言われるドイツ三十年戦争でも、人口が3分の2、もしくは3分の1に減るところまでだった。 この683万…

三国志の時代、中国大陸には人口680万しかいない。

歴史的な書物から、中国史上の人口がわかる。 ●前漢平帝 西暦2年 5959万人 1223万戸 出典「漢書・地理誌」 ●光武帝崩御の年 57年 2100万人 427万戸 出典「後漢書・郡国志」 ●後漢桓帝 157年 5648万人 1067万戸 出典「晋書・地理誌」 ●魏元帝 263年 443万人 6…

諸葛孔明 北伐は何が目標か

諸葛孔明の第一次北伐は、劉邦をベンチマークしている。斜谷道と見せかけて(趙雲を使った)陳倉ではなく、天水、隴であった。 しかし、隴関を抑えれば、隴の完全獲得だが、街亭で馬謖が敗れたことにより、撤退。天水や隴関までの距離を考えると、斜谷道の陽…

諸葛孔明 第一次北伐の狙いは領土拡張。

孔明の第一次北伐の狙いは、 領土拡張。ドラマチックな決戦ではない。 結論として天水以東の確実な確保である。 関中の陳倉から天水に至るまでには、険しい山脈がある。 隴山。ここに隴関という関所もある。 斜谷道に趙雲を出し、上庸で孟達に反乱を起こさせ…

南が「中国」~三国志・蜀漢の重要性~

=南が「中国」、江南が「中国」= 何を「中国」と見るのか。 これは案外と難しいテーマである。 中国大陸において、様々な王朝の勃興はあった。 しかし、文王・武王の周王朝でさえ、 後の中国から見れば異民族の可能性がある。 春秋戦国時代の間は、周王朝…

「三国志演義」はプロパガンダ

正史三国志と三国志演義の違い。 正史と演義では、曹操・劉備の描き方が全く違う。 これは書かれた時代背景が違うため。 明の時代では、「蜀漢正統論」が前提であった。 だから、蜀の大活躍が描かれる、「三国志演義」が生まれた。 きわめて政治性の強い物語…

漢中⇔関中ルート5 関山道

秦嶺山脈の最も西側を通る。 漢中から陽平関を出て、下弁、岐山を経て天水に至る。 距離は長いが、比較的平坦な道である。 諸葛孔明の第一次北伐(228年春)の際の孔明本隊、 第三次北伐(229年春)の際の武都・陰平攻略(陳式が担当)の際に 使われた。画像…

漢中⇔関中ルート4 故道

陽平関を出て、褒斜道のさらに西から散関を抜けて陳倉へ出る道。 曹操が漢中の張魯攻略(215年)に使った道であり、 諸葛孔明が第二次北伐の時に使った道でもある。 故道からの出口を塞ぐ陳倉を曹真が強化しており、 守将・郝昭の抵抗により、撤退させられた…

漢中⇔関中ルート3 斜谷道(褒斜道)

褒斜道=斜谷道 漢中側の褒水の流れる谷間・褒谷と、関中側の斜水の流れる谷間・斜水、および両水の上流は陸地(つまり頂上)、これらを褒斜道と呼ぶ。 漢中盆地の中心地・南鄭(漢中とも呼ぶ)から真北に進み、そのまままっすぐであれば陳倉(後の鳳翔、今…

漢中⇔関中ルート2 駱谷道

駱谷道 長安の西50キロあたりから標高3771メートルの太白山の手前を南下し、 漢中東方40キロ成固に至る。 244年に興勢の役で曹爽・夏侯玄・郭淮ら10余万の魏軍がこの道を通り漢中へと侵攻。 王平が駱谷道中の興勢山、黄金谷の進路を塞いでそれ以上、敵軍の侵…

漢中⇔関中ルート1 子午道(子牛谷)

子午道 漢中から長安へ向かう最短ルート。 長安の南から、漢中盆地の東端(南鄭から100キロ)に出る。 最も東側。諸葛孔明の北伐の際、 魏延が主張していた侵攻ルート。 諸葛孔明は、このルートは使わなかった。