歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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異民族

⑤石勒の中華戦記 葛陂から襄国へ撤退 それは匈奴漢への背信行為 312年

●石勒の葛陂の撤退は匈奴漢からの命令違反 ●石勒、旧王弥の領域を通過して、襄国に入る。 石勒は葛陂を引き払って、勝手に襄国に本拠を置いて、 河北制覇を目指す。 それは匈奴漢皇帝劉聡に対する背信行為であった。 石勒にとっても大きなリスクを背負っての…

③石勒の中華戦記 第三次洛陽攻撃から王弥暗殺 311年6月〜311年10月

石勒は洛陽最後の陥落を前にして洛陽を去る。 石勒がいない、洛陽において、劉曜と王弥は対立。 そのとばっちりを受けたかたちで、石勒は王弥に付け狙われる。 西晋滅亡を期に匈奴漢が内紛を起こし始める。 先に王弥の視点から、西晋滅亡から王弥が石勒に暗…

②石勒の中華戦記 荊州転戦、旧司馬越軍壊滅、三度の洛陽攻撃 310年7月〜311年6月

305年の反乱から、312年葛陂の撤退までの 石勒の野獣期の続きを記したい。 ●洛陽攻撃を境に、河北から荊州北部へと戦いは移る。 ●荊州から豫州へ山越えして西晋の中核軍を破滅させる ●石勒は洛陽陥落の褒賞(掠奪)から排除される。 匈奴漢による西晋帝都洛…

①石勒の中華戦記 305年〜310年 河北転戦

まずは司馬穎麾下公師藩のもとで、 八王の乱を戦った異民族の一人が石勒である。 これが始まり。 ●310年までは、黄河北岸の河北エリアで転戦する。 ●石勒の305年から310年の動き。 石勒こそが漢人中華を滅ぼした張本人。 奴隷から皇帝までのし上がった中華史…

劉淵・石勒 事績が分かりにくい理由

劉淵、石勒に関する書物というのは非常に少ない。 特に石勒は少ない。中華史を大きく変えた人物なのに、注目されないのはなぜか。 ●魏晋南北朝時代は中華圏と異民族圏の壮大な戦いの時代 ●中華と匈奴の合いの子、劉淵の誕生: ●劉淵の志を継ぐ石勒、胡漢融合…

石勒、312年葛陂の悟り=これこそが劉聡、劉曜と袂を分つきっかけである=

石勒が異民族から英雄に進化したのは、葛陂の戦いである。 許昌南西方面の豫州汝陰郡葛陂において、寿春を目の前にして立ち往生したときである。 石勒は司馬睿軍が駐屯する寿春を前に立ち往生。 引用:中国歴史地図集 ●石勒、葛陂にて悟る。 葛陂にたどり着…

石勒はソグド人か②=石勒は安禄山と同じソグド人、祖先は大月氏=

石勒の先進性は、その出自に由来する。 異民族どころではない、歴史の孤児石勒。 その由来を辿る。

石勒はソグド人か①=「石勒」という名前はトルコの当て字=

石勒の出自に関して記述をしたい。 ●石勒の出身民族、羯とは。 ●なぜ石勒は「石勒」という名前になったのか。 ●なぜ、わかりきった名前にしたのか。「石勒」≠匈奴。 石勒は、羌渠部から派生した羯族の一人と言われている。 これはあてにならないと私は考えて…

差別された側が、差別した側を打倒していくのが中華の歴史である。=漢、唐、元が概念を変える=

漢人の異民族に対する差別は、近代の白人の、有色人種に対する考えと同じである。 中華の歴史の中で、差別する差別される側というのは、固定していない。 600年から800年のタームで、変化していく。 差別された側が、差別した側を打倒していくのが中華の歴史…

長江は文化圏を分ける。黄河は幽州を分離=石勒312年江南撤退、襄国本拠設置から辿る=

●長江は文化圏を分ける。 ●石勒は襄国に本拠を定める。理由その1 王浚への対抗 ●石勒は襄国に本拠を定める。理由その2 石勒の強みを最も活かせる土地 石勒の邁進にストップをかけた長江。 これは曹操も同じであった。 長江は移動の弊害という天嶮の意味だけ…

石勒の転機は312年に寿春手前で足止めを食い、建業に攻め込めなかったことである。

石勒の経歴を端的に記す。 中原から長江北岸までを散々荒らし回ったが、 華北に帰り、拠点を設け、覇道の道へと進む。 その結果、華北東半分の覇者となり、劉曜との洛陽最終決戦に望み、勝利。 晴れて皇帝となり、中原の覇者となる。 こうした輝かしい異民族…

都市に関心がない異民族=石勒は江南で敗れて襄国に帰るまで都市を占領統治しない。

石勒をはじめ、異民族というのは都市を統治しない。 都市の活用の仕方がわからないのである。 ●ただ、中華内地を荒らすだけの石勒 ●北方異民族にとって都市自体に価値はなかった。 だから、とにかく略奪するのみ。 おかげで石勒は三度も鄴を陥落させることに…

匈奴の冒頓単于に始まる「人さらい」=異民族が「漢人」を欲しがる理由=

西晋末期から五胡十六国時代にかけて、異民族にとって、 人間は家畜や穀物とほぼ同列の資源、物資として扱われていることを歴史上から私は説明している。 異民族が漢文明に染まりながらも、異民族の風習が中国を席巻するのが、この時代である。 石勒はとにか…

石勒というカタストロフィ〜本来石勒は英雄だった〜

石勒とは何者か。 歴史に埋もれた英雄である。 ●石勒の実績は四つの史上初と、中華統一王朝を滅ぼすという歴史的快挙 ●中華史上の快挙である石勒が異民族である悲劇 この人物は、中華史上、最大の成り上がりを成し遂げた人物である。歴史の流れから考えると…

八王の乱の対立構図、賈后対皇太子は五胡十六国時代の終焉まで続く。

匈奴漢劉淵は司馬穎・司馬顒の系譜を継ぐ。 司馬越はこれらに対抗する。 この対立構図は八王の乱の初期からずっと変わっていない。 それは西晋末、五胡十六国時代にかけてずっと不変の構図となる。 ●賈后派と司馬穎派: ●北魏の華北統一は新しい時代の到来を…

晋書の役割=劉淵が皇帝を名乗った経緯から探る=

●晋書成立の背景 ●晋書の役割 ●唐が受け継いだ北朝の発端 ●劉淵が漢皇帝と同格でかつ漢皇帝を継承するとした時期 現代中国は政治的な国とよく言われる。 それは中国史において、政治的な対処が明確にしているからではないかと 私は考える。 王朝が全く変わる…

劉淵の独立は二回=王であること、皇帝であることは意味が異なる=

劉淵の独立は二度。その意味の違い。 劉淵、自立の経緯 304年の劉淵独立が漢王にとどまる、その意味 劉淵、二度目の独立。308年10月皇帝になる。 このタイミングでなぜ劉淵は皇帝となったか。 劉淵の独立は二度。その意味の違い。 劉淵の自立は、二回ある。 …

劉淵の歴史認識=匈奴漢が祀る三祖五宗とは=

三祖五宗 太祖とは、世祖とは、烈祖とは 劉淵は高祖光文帝。この意味。 劉淵の打ち立てた王朝、匈奴漢の宗廟で祀る皇帝は下記である。 三祖五宗 祀る皇帝は下記である。三祖五宗という。 【三祖】太祖高皇帝劉邦世祖光武帝劉秀烈祖昭烈帝劉備【五宗】太宗文…

劉淵自立の背景=劉淵の天命論=それに対する司馬越の当て付けが劉琨

●天から選ばれた子という天子伝説に則って、劉淵は自立した。 ●祀る皇帝は下記の三祖五宗 劉淵の自立理由は二点だ。 ①匈奴本国の掌握の為である。 ②匈奴の不満を抑える為である。 ●とはいえ304年に自立した劉淵は3年大して動かない。 ●匈奴だけではなく、こ…

劉淵の父とされる「劉豹」、その正体=④劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=

●用済みになった呼廚泉 ●劉豹は羌渠の「兄弟」、これが正解である。 ●用済みになった呼廚泉 さて劉豹は於夫羅の子ではない。 なぜ劉豹は於夫羅の子にされたのか。 それは、於夫羅が単于として中華内地に留め置かれ、 漢に屈服した人物だからだ。 195年に早死…

匈奴の単于が、漢人名の劉氏を名乗ること、その奇怪さ。 =③劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=

●そもそも劉氏と誰が初めに名乗ったのか。 ●劉豹は於夫羅の子ではない。 匈奴の単于が、漢人名の劉氏を名乗ること、その奇怪さ。 これに注目する。 ●そもそも劉氏と誰が初めに名乗ったのか。 劉淵以降の系譜はみな劉氏だが、 その前の世代だと、劉氏を名乗っ…

劉豹Aと劉豹Bの存在=②劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=

●劉豹の事績 ●何故劉豹は二人いて、劉淵は劉豹の子であったのか。 ●劉豹Bが抹消されたのは何故か。 劉豹と劉宣両名の系図を疑ってかかる。 まずは劉豹から。 ●劉豹の事績 劉豹の話に戻るが、 事績は前半と後半の二つに分かれる。 前半部分は後漢末期の話であ…

①劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=劉豹は於夫羅の子ではなく、劉宣は羌渠の子ではない。=

劉淵は劉豹の子ではない。 また匈奴本国で、左賢王として匈奴独立を推進した 大叔父劉宣は、於夫羅・呼廚泉の兄弟でもない。これは前項までの「劉淵出自の謎」で説明してきた。 ・まず劉淵は劉豹の子ではない。 ・劉宣は於夫羅・呼廚泉の兄弟ではない。すな…

劉淵独立の真実②=劉淵の司馬穎軍からの離脱エピソードの嘘

++劉淵に匈奴独立の動機がない++ ++後漢末期の匈奴単于羌渠と同様に殺されかねない状況の劉淵++ 劉淵は親西晋、羌渠と同じ、親中華 ++やむなく自立する劉淵、促したのは左賢王劉宣の現実的な判断++ ++劉淵に匈奴独立の動機がない++ 劉淵のこ…

⑤劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~劉淵の本当の父~

●劉淵の本当の父 ●曹操が作った単于=人質、左賢王=エージェントモデルからの発展「単于自身が漢化する」 ●匈奴漢が中華風王朝であるのは劉淵存命まで。 これまで、曹魏、西晋の匈奴政策、 それに紐づく匈奴単于家の不透明な経歴、年齢について述べてきた。…

④劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~ 匈奴の単于が劉氏となるその覚悟はどこから来るのか ~

●劉豹にある謎。何故劉氏なのか。何故死没年が279年なのか。 ●劉氏庇護と匈奴単于家系譜の改竄 ●西晋にとって劉淵の存在意義 ●劉豹にある謎。何故劉氏なのか。何故死没年が279年なのか。 劉宣もそうだが、 私は匈奴という民族意識があるのであれば、 匈奴か…

③匈奴漢の祖劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~於夫羅の弟、息子は疑惑ばかり~

年齢詐称は決して現代だけのものではない。 歴史上にもおかしな年齢というのは存在する。そこからわかる歴史の実態というのもある。今回は匈奴単于の秘密を年齢から暴く。

②匈奴漢の祖劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~曹操が始めた匈奴単于人質策。左賢王は曹操の代理人~

「劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎①」において、 劉淵の父劉豹と祖父於夫羅の親子関係に大きな疑惑があることを説明した。 ●於夫羅と呼廚泉の立場 ●曹操の匈奴統治政策。馬は覇業のキーファクター ここでは、まず劉豹の先々代の「単于」で「父」とされる…

①匈奴漢の祖劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~劉淵の父と祖父の関係に疑惑がある~

劉淵の父は 本当に単于の家系なのか。 ●劉豹はどういった経緯で単于直系となったのか。 ●劉豹が単于に連なるには、父との年齢差が非常に問題 劉淵の父、劉豹という人物にフォーカスして考えたい。 劉淵の父劉豹は、匈奴単于の系譜から判断すると、 甥の匈奴…

鄴の東を下にして地図を見る~覇者の地・鄴~

鄴は曹操が本拠地を置いた時から、 覇者の地としての歴史が始まるのである。 洛陽⇔幽州(北京)間の回廊、その真ん中に鄴はある。 (引用元:地図で訪ねる歴史の舞台 帝国書院 ※武藤加筆) ここ鄴を抑えることが華北の覇者としての条件となる。 覇者の地とし…