歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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士大夫 の検索結果:

東晋初期の内紛。蘇峻の乱が終わる329年までの概略

… 庾氏は後漢の清流派士大夫の宝庫、潁川の出身である。 政権を執った庾亮は、 王敦の意を受けた王導のバランス型政治から、 厳粛な法家政治を志向。 王導の各勢力の力関係を意識した寝技的なやり方から、庾亮のストレートな 原理原則主義に変わったということである。 全ては中華皇帝たる成帝のものである。 成帝は幼帝なので、庾太后が代行する。 その庾太后を兄である庾亮が補佐する。 厳粛だったり、原理原則、というのは、 実態を認めず、皇帝主体のあるべき論で事を判断するということだ。 王敦、王…

石勒を継ぐ者、慕容恪

…、異民族の王と、漢人士大夫の間の子であり、しっかりとしたものだった。 慕容恪は異民族と漢人のハーフなのである。 彼は当然父の手元で育てられたが、母の影を追った。 このパターンは母を憎むか、母を追慕するかのどちらかである。 慕容恪は母を追慕する道を進んだ。母のルーツ漢人の文化を知ろうとした。 ●慕容恪は漢人の教養を持つ。 慕容恪は普通の異民族と異なる。 兵法に長じている。 攻めるときは攻め、守るときは守る。 攻め時でなければ、時間を待ち、 相手が手強ければ潔く撤退する。 桓温が…

劉淵 漢として自立した真実の理由=劉淵は西晋のエージェントである=

…行為だということは、士大夫以上の中華の教養があるのであれば、確実に劉淵はこの意味を分かっている。 歴史の事実としては、劉淵が皇帝に即位したのは、308年10月である。 皇帝即位は西晋皇帝への完全な敵対行為なので、白登山の戦いを由来としてもそれはやむを得ない。 しかしながら、304年の漢王の由来を白登山の戦いに寄るのは、王号に留まっているのに、その先鋭な行為はちぐはぐである。 ●何故漢と名乗ったか。 まとめると、王号に留まる意味と、白登山の戦いを由来として漢と名乗るというのは全…

洛陽よりも鄴 曹操に始まる中原の覇者の都・鄴~鄴の歴史⑦

…名声からか、 多数の士大夫が逃げ込んでくる。 ●●●袁紹が光武帝を継ぐ●●● www.rekishinoshinzui.com www.rekishinoshinzui.com www.rekishinoshinzui.com www.rekishinoshinzui.com 後漢期において、もっとも三公を輩出したのがこの汝南袁氏であった。 (四世連続で輩出し、後漢期において6人も輩出している。) 皇帝が董卓に拉致された今、頼るのは袁紹しかないということであった。 儒教的な中…

懐帝と司馬越、対立の構図は八王の乱を継承。懐帝の暴挙が曹魏末と同様の状況を引き起こす。

…馬越を始めとした貴族士大夫たちは、 結局のところ、懐帝を皇帝と認めなかったのだ。 これほどわかりやすく見捨てられた皇帝はいないのではないか。 懐帝は洛陽に置き去りにされた。 政治も軍事も、典礼も何もできない。 洛陽にはもう数百戸の民しか残っていなかった。 匈奴漢の劉曜が悠々と洛陽を攻撃し、 あっさりと陥落する。 初めて皇帝のいる帝都が、異民族によって占拠された瞬間である。 捕虜となった懐帝に待っていたのは、 奴隷に等しい扱いを1年間散々されるという待遇であった。 異民族は漢民…

中華史において戦争に強い人物は異民族

…前提として、 中華の士大夫は馬に乗れないのだ。 馬に乗れなければ、 騎兵を賢く運用するのは容易くない。 誰か別に有能な幕僚は必ず必要だ。 中華が安定すると、 異民族を差別する。 中華が不安定になると、 異民族であることに目を瞑り、活用する。 そして安定したらまた差別する。 その繰り返しである。 しかし、活用された異民族は、 中華の内側に入り、差別する側として、 中華に同化する。 これこそが中華史の本質である。 同化は中華史の常道である。 これは前漢武帝が創り出した、 中華の統…

310年11月司馬越、西晋を見捨てる。~江南への事実上の「遷都」①~

…人の軍勢及び 主要な士大夫を引き連れて、 南東に下がる。 それは、許昌から潁水を下る道であった。 この道は寿春にたどり着くが、 その道すがらの 陳郡の項県に駐屯する。 司馬越は、この行軍の前月、 310年10月に天下の兵を徴兵した。 これは全く集まらなかったので、 司馬越の名声が地に堕ちたと良く言われる。 これは、というよりも、西晋自体の統治が崩壊していたと見るべきである。 何故なら、この後、空っぽになった洛陽は、匈奴の攻撃を受け、 抗戦することもできず、陥落するのだから。 …

司馬穎「いけしゃあしゃあと理屈を説いてくる兄司馬乂などと組めるか!」 八王の乱唯一の兄弟喧嘩 八王の乱⑯

…ので、共通の価値観を士大夫たちと持ちえないのである。 それは現代の我々が想像する以上に司馬穎は蔑視されたはずだ。 泰平の時代では、世に出て来られなかっただろう。 しかしながら、司馬穎にとって幸運なことに八王の乱という戦乱の世に遭遇した。 彼は栄達する。イレギュラーであることを司馬穎自身も自覚している。 一方、司馬乂は儒教の修養を積んだ者である。 西晋の皇帝は、周や漢のように絶対無比の皇帝で、 理由如何なく、輔弼するものという考えで、司馬乂は動いている。 司馬冏を打倒し、恵帝に…

賈謐にとっての、「賈謐二十四友」とは何なのか。

…当主賈謐は長じて、 士大夫と交流を積極的に持つ。 それらは賈謐二十四友と呼ばれる。メンバーは、 石崇・欧陽建・潘岳・陸機・陸雲・鏐世徴・杜斌・摯虞・諸葛銓・王粹・杜育・鄒捷・左思・崔基・劉瓌・和郁・周恢・牽秀・陳眕・郭彰・許猛・劉訥・劉輿・劉琨 である。 賈謐二十四友は、これら人材が出世を求めて賈謐に取り入ったという考えが多いようだが、 ことはそう単純であろうか。 賈謐は、賈后政権において、外戚であり、執権の立場でありながら、 賈謐自身が若年で、かつ祖父賈充に親族が少ないため…

西晋は賈充に始まり賈充に終わる

…令する。 司馬攸はそれを憂いて、悶死するのだ。 王莽の故事からわかるようにこれは悶死するほどの事件なのである。 こうして、 武帝司馬炎が同母弟司馬攸を排除することで、 司馬氏の結束は揺らいだ。 西晋自体の結束も揺らいだ。 司馬攸を支持していた、士大夫は多かったのである。 武帝司馬炎は外戚の弘農楊氏しか頼る先がなくなってしまった。 楊氏もうまく機能せず、 それを打倒したのが賈充の娘で恵帝の皇后賈后である。 賈充の娘賈后は、 皇帝の名を騙って、皇帝権を濫用し、 王朝を崩壊させた。

「蜀」「蜀漢」ではない、「漢」である。

…戦扱いだ。 蜀にいる士大夫、民衆の要望に則っているという立ち位置だ。 219年には漢中を曹操から獲得する。 ここは、前漢高祖劉邦が漢王となった地である。 それに習い、また諸大臣の要請に応える形で、 漢中王となる。 漢皇帝から任命されているわけではない。 僭称であるので、反対者もいた。 この反対者の 理由は、大きく三点ある。 漢を、漢皇帝を支えるという大義名分が崩れる、 そもそも僭称である、 前漢後漢の漢朝400年の歴史で、漢皇帝以外に皇帝はあり得ない、 以上3点である。 そも…

鍾会の思想〜才性四本論:人材とは、評価とは〜鍾会②

…は激怒する。 「他の士大夫は、謎を解くことを目上の人に 譲ろうとして黙っていただけだ。 それをお前は無視して答えることで、 その人達を三度も侮辱したのだ。私がいなければ この家はすぐに潰れるだろう」 と言って、士会は士燮を殴打した。 その後士燮は上軍の将(晋におけるNo.3)に昇格する。 鞍の戦いでは晋は斉を打ち破った。 士燮の帰参が遅かったので、 士会がその理由を問う。 士燮は、「今回の戦いは、正卿である郤子(郤克。士会の後任。郤缺の子。郤克は以前斉にその風貌を笑われ、その…

魏後廃帝曹髦とは何者か。

…墨守することが名族・士大夫の条件であった。 この三曹のやり方は、伝統に囚われないということを主張している。 つまり、自由に漢語を使って、詩を著せということだ。 日本が太平洋戦争中に、英語で曲を作るようなものだ。 三曹は伝統的社会に喧嘩を売ったわけだ。 ②杜甫・李白の詩は、鮮卑語をはじめとした周辺言語が流入して、 生まれた、新しい漢語である。 これは言語学者岡田英弘氏の著作に詳しい。 漢語・中国語は、表意文字から始まる。 しかし、中華の周辺地域の言語、 日本語も含まれるが、これ…

袁紹と司馬懿の中継ぎ役が荀彧=荀彧は自殺していない=

…到了部分有才能的豪族士大夫的支持,如荀彧、荀攸。(略)荀彧认为袁绍不能有所作为,遂舍袁从曹。他还为曹操引进了不少士大夫阶级的人物。然而,作为一个阶级来说,儒家豪族是与寒族出身的曹氏对立的。官渡一战,曹氏胜,袁氏败,儒家豪族阶级不得不暂时隐忍屈辱。但乘机恢复的想法,未尝一刻抛弃。曹操死后,他们找到了司马懿,支持司马懿向曹氏展开了夺权斗争。袁绍是有后继人的,他的继承人就是司马懿。袁绍的失败只表明儒家豪族暂时受到了挫折。后来,他们通过司马懿父子之手,终于把政权夺回到了自己的手上。 …

司馬懿=前漢宣帝=後漢光武帝=袁紹③

…らず、 清流派官僚・士大夫たちからの非難の的となっていた。 その長らくの王朝の癌を、 清流派官僚で、四世三公を輩出した、代表的名族の袁紹が、 先頭を切ってかんがんを撲滅したのである。 世の清流派官僚やそれを輩出する後の名族たちとしては、 まさに理想的な終着点だ。 しかし、その後処理に袁紹は手間取った。 宦官を全滅させた清流派官僚で名族の袁紹は、 その混乱に乗じた董卓に実権を奪われた。 関中方面から多数の兵を率いて洛陽に入った。 董卓も出自は怪しい。 隴右の出身では、羌族と慣れ…

儒家思想は、究極のボトムアップ。

… 対局的なことを言っている。 つまり国は豪族、貴族、士大夫のものである。 彼らが時の支配者がまとまるに相応しいか決める。 相応しければ従い、 相応しくなければ潰す。 法家は、 法による統治、 法を作るのは皇帝、 法に従え、 法に従うこと、 それは法を作った皇帝に従うこと。 中央集権につながる。 法家思想とは中央集権のシステムといえる。 一方、 儒家思想は、伝説の帝王クラスの君主がいないと、 国内はまとまることができない。 伝説の帝王クラスの君主の存在が前提の システムである。

蜀科(蜀漢の法)の制定~諸葛孔明 厳しい法治主義 法家思想に立つ~

…を強く受け継ぐいわば士大夫層は、 魏のある中原に当然で最も多くいた。 魏文帝曹丕の時、 刑罰の明確化ということで、 死刑と鞭打ち刑の間に、肉刑、すなわち 足の筋を切ったり、鼻を削ぎ落とすといった 戦国時代によく出てくる刑罰を復活するかどうかの 議論があった。 陳羣は賛成で、 曹丕も内心賛成であった。 法を犯したら、国家、皇帝としては看過しないという 統治の存在感を見せるため、肉刑の復活を 望んだ。それは、すなわち皇帝権の強化につながる。 しかし、王朗などは反対した。 寛容を持…

李厳の反対を押さえ込んで、諸葛孔明、満を持しての第五次北伐

…である。 それぞれの士大夫、貴族と言ってもいい高官が、 それぞれ考え、振る舞う。 そもそも儒家思想に立つ人は、法家思想を超えた概念で 行動する。本来、法は無視してもいいともいえる。 そういう風潮の時代、後漢が少し前まであったのだ。 李厳自身、もしくは他の誰かが反対しても全くおかしくはない。 反対、もしくは消極論が出て当然である。何ら不思議はない。 だからこそ、 諸葛孔明は李厳を庶民に落としたのだ。 虚言で朝廷から追放、庶民に落とすなど、 聞いたことがない。 降格が適当だ。 し…

中国史における1000年に渡る覇道と王道の対立=法家と儒家の対立

…皇帝権と豪族・貴族・士大夫。 トップダウンとボトムアップ。 これらはすべて同じ対立軸である。 これらの対立軸は春秋時代の終わりから始まり、 隋の成立により終わった。 西周から春秋時代前期までは徳治主義であったが、 春秋時代末期から法治主義が重視されるようになった。 戦国時代に入ると、 法家主義は富国強兵策として、 もてはやされ、それは秦の始皇帝の時代、 ひとつの全盛期を迎える。 しかし行き過ぎた法家思想が秦の崩壊を加速させ、 前漢の成立へと至る。 高祖劉邦は、儒家を嫌った。 …

三国時代は法家と儒家の思想対立の過渡期

…班固をはじめ、 実は士大夫層には王莽は支持・賞賛された。 当時の士大夫層の教養というのは、 周王朝の古例が前提で、 それに沿うように教養を積んでいた。 それが王道というわけである。 間接的に王莽を打倒した後漢光武帝劉秀も、 その時代の潮流に合わせて、 官吏の登用法は、儒家思想に則った。 当時の官吏登用法は、 郷挙里選である。 この郷挙里選は、前漢武帝の時、 董仲舒の献言によって始まった。 それが後漢になると、 孝廉という儒教的教養と素行を兼ね備えているかを 重視するようになっ…