歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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姚泓後秦滅亡原因の一つは胡漢融合の失敗~「文弱」になる、異民族の王の後継者~

●内憂外患、四面楚歌の姚泓 ●「文弱」になる、異民族の王の後継者 ●鳩摩羅什が姚興に中華国家を志向させた。 ●中身は「漢人」の姚泓に対する、羌族姚氏の反発。 ●内憂外患、四面楚歌の姚泓 内憂外患。 四面楚歌。 姚泓が後を継ぐも、 非常に厳しい対外情勢と…

非歴史的な韓国、北朝鮮国境線

●朝鮮半島、3つのエリア ●歴史的な「ソウル」エリアを分断する38度線。 ●中華視点なら、平壌が首都としてはベスト。 ●平壌から開城の間にある滅悪山脈が本来の国境線。 ●漢江―臨津江線の北緯38度線は地形的に国境線になり得ない。 先日、ソウルに行ってきた…

姚興の治世後半の落日。仲良し後秦羌族姚氏の末日。402年柴壁の戦い。

●後秦の運命を決める402年柴壁の戦い。 ・平陽、後秦にとって、北魏にとっての意味。 ●柴壁の戦いにおいて後秦姚興の最大の誤算は拓跋珪の親征。 ●姚碩徳が404年南涼の服属で涼州をほぼ掌握。 ●405年後仇池の服属。これで後秦の対外拡張は終焉。 ●407年赫連…

4代姚興前半期に後秦羌族姚氏は最盛期を迎える。

●姚興の前半期に羌族姚氏は最盛期を迎える。 ・東晋の状況 ・関中以外の華北情勢 ●羌族の仲良し姚氏の本領発揮 ●後秦羌族姚氏の快進撃。 ・394年前秦苻登の撃破。 ・396年河東の確保 ・399年洛陽の獲得。 ・400年西秦の服属化。 ・401年後涼の服属化。 ●鳩摩…

姚萇独立するも袋叩きに遭う~羌族の仲良し姚氏~

●異民族の皇帝から脱皮しつつあった苻堅 ●姚萇、苻堅縊死後長安を奪取。 ●孤立する姚萇羌族姚氏集団 ●前秦苻登との泥仕合 ●前秦苻登の失策。 ●姚萇の反撃、苻登の大敗。 ●参考図書: ●異民族の皇帝から脱皮しつつあった苻堅 皇帝を殺すという大チョンボを犯…

姚萇、苻堅殺しの大チョンボ~羌族の仲良し姚氏~

●王猛の死後、苻堅に重用される姚萇羌族集団。 ●前秦苻堅帝国の崩壊。 ●鮮卑慕容部の慕容泓VS姚萇羌族集団。 ●姚萇の大チョンボ。その1 「秦」 ・秦はまずい。 ●姚萇の大チョンボ。その2 ●皇帝のなり方をしらない姚萇 ●皇帝は絶対に殺してはいけない。 ●参…

姚萇が王猛に警戒された本当の理由~羌族の仲良し姚氏~

●苻堅に降る姚萇 ●姚萇のもとでも、結束する羌族姚氏集団 ●王猛から警戒される姚萇の羌族集団。 ●王猛の遺言 ●王猛が羌(姚萇)を警戒した理由 ・羌族集団の結束力 ・姚弋仲の胡漢のバランス感覚 ・実は王猛の考えは羌族姚氏の始祖、姚弋仲と同じ。 ・胡漢融…

1637年朝鮮国王が清のホンタイジに完全従属した日 大清皇帝功徳碑(三田渡の盟約)

●大清皇帝功徳碑(三田渡碑)の要旨5点。 ■清に服属せよ。 ■明を攻めるので従軍せよ。 ■朝鮮の民は清のもの。 ■自衛権を剥奪する ■日本との貿易はしていいから上前をよこせ。 ●大清皇帝功徳碑の原文 ●江戸時代の藩に近い扱いの李氏朝鮮。 ●何故この大清皇帝…

二代姚襄②苻堅に最後は敗死~羌族の仲良し姚氏~

①より続く。 姚襄は東晋に帰属したものの、 東晋陣営との折り合いが悪く、結局自立をする。 ●姚襄、東晋から離反して前燕に付属。 ●姚襄、洛陽にて東晋の桓温と遭遇。 ●姚襄は桓温の第二次北伐と激突 ●姚襄の撤退。 ●357年三原の戦い 姚襄は皇帝になる前の苻…

二代姚襄①東晋を離反するまで~羌族の仲良し姚氏~

高い結束力を誇る羌族姚氏。 これが羌族姚氏の強みである。 ①姚弋仲(ようよくちゅう) www.rekishinoshinzui.com ②姚襄(ようじょう) ③姚萇(ようちょう) ④姚興(ようこう) ⑤姚泓(ようおう) の五代である。 姚襄は、始祖姚弋仲の後を受ける二代目。 35…

始祖姚弋仲(ようよくちゅう)~羌族の仲良し姚氏~

高い結束力を誇る羌族姚氏。 これが羌族姚氏の強みである。 歴史上の羌族姚氏は 下記である。 姚弋仲(ようよくちゅう) 姚襄(ようじょう) 姚萇(ようちょう) 姚興(ようこう) 姚泓(ようおう) の五代である。 姚泓は姚興を継いで一年で東晋の劉裕に滅…

劉裕の北伐、土断、禅譲までの経緯。

東晋の命運にとどめを刺し、南北朝への時代の幕開けを行う劉裕。 ●404年劉裕の全権掌握 ●ここで桓温を模倣することができるのが劉裕の凄さ ●劉裕の第一次北伐、409年南燕討伐。 ●411年孫恩の乱の鎮圧完了。 ●劉裕、412年政敵を排除完了。 ●413年に蜀の確保。…

正史三国志と三国志演義の違い②三国志演義の世界でありたい漢民族

●「晋書」の政治的位置づけ ・異民族が中華を支配する上での大問題 ・唐太宗の大決断 ●モンゴルの元は、五胡と同じ異民族王朝 ●明の快挙がそれまでの史観を変えさせた。 ●明の朱元璋を称えるために作られた「三国志演義」 ● 漢民族至上主義を作り出す三国志…

正史三国志と三国志演義の違い①正史三国志では困る、まで。

●正史三国志と三国志演義の違い。 ●魏に配慮する陳寿 ●本音は蜀漢も書きたい陳寿。 ●東晋半ばにこの史観に修正が起きる。 ●蜀漢正統論の始まりは桓温批判のため。 ●正史三国志と三国志演義の違い。 正史三国志は、 晋初に成立している。 著者は陳寿。 陳寿は…

参合陂の場所について。

※内モンゴル涼城県の東北、つまり今の岱海周辺という 説もあるが、ここでは陽高県の説をとっている。 岱海近辺であれば、フフホトとウランチャブの間ということになる。 参合陂の場所について。 結論、これは≒白登山である。 ●参合陂はどこなのか。 ●戦略的…

395年と404年。五胡十六国時代末期、北と南はそれぞれ異なるタイミングで時代が代わる。

395年と404年。 五胡十六国時代末期、 北と南はそれぞれ異なるタイミングで時代が代わる。 ●華北異民族は群雄割拠、争乱の歴史。 ●華南東晋の漢民族は権力闘争の歴史。 ●大陸中国という現代の枠組みで考えない。 395年は、 華北の異民族抗争に関する天王山、…

慕容垂、運命の395年参合陂の戦い

慕容垂にとっては自身の運命を決めてしまった参合陂の戦い。 一方、北魏にとっては、華北の覇者となるチャンスを掴んだ、 いわば天下分け目の戦いであった。 天下と言っても、華北だけのことではあるが、 江南を異民族が支配したことはこの時点ではなかった…

慕容垂、運命の395年参合陂の戦い前夜。

●五胡十六国時代から南北朝へ移る時代の変わり目 ●華北の時代の境目は395年の参合陂の戦い ●五胡十六国時代から南北朝へ移る時代の変わり目 華北は395年、 華南、つまり東晋は404年で時代が変わる。 それぞれ区切りを付ける事件がある。 395年は参合陂(さん…

衰退する国家と、孫恩の乱。

●衰退していく国家 ●孫恩の乱は「起義」 ●孫恩の乱の経緯~孫恩が身投げするまで~ ●孫恩集団の宗教性。 ●孫恩死後の反乱は妹婿盧循が継ぐ。 ●劉裕により孫恩の妹婿盧循は鎮圧される。 ●孫恩「起義」の成果。 ●衰退していく国家 衰退していく国家とはとにか…

東晋孝武帝と司馬道子の兄弟争いから桓玄の簒奪まで

●孝武帝と司馬道子の兄弟争い ●恩倖(オンコウ)の初登場 ●398年亡き孝武帝の義兄、王恭の乱 ●司馬道子の子、司馬元顕が孫恩の乱を引き起こす。 ●桓玄が東晋の実権を奪い、皇位を簒奪する。 司馬道子。 東晋末期の悪役である。 謝安を384年に追い出してから…

六鎮は北魏鮮卑拓跋氏の本来の本拠地である。

●北魏にとって「代」こと「平城」は中華との結節点 ●六鎮は北魏拓跋氏の故郷 ●故郷を捨てた北魏孝文帝 ●北魏にとって「代」こと「平城」は中華との結節点 平城は、代である。 現在の大同市。後に燕雲十六州と呼ばれるうちの、「雲」とは代のことである。 こ…

前燕と前秦を滅亡させた慕容垂、北魏に足をすくわれる。

●慕容垂の自立から死去までの概説 ●苻堅後の華北。 ●394年時点で華北は慕容垂と姚萇の子姚興が勝ち残っていた。 ●参合陂の戦いに至るまでの慕容垂 ●慕容垂が狙う、代の北魏とは。 ●慕容垂が北魏拓跋珪に足をすくわれるまで。 384年淝水の戦い以後439年北魏に…

西燕が本来の鮮卑慕容部の正統政権。鮮卑慕容部お家芸の内輪揉めはここにも。

●苻堅後の華北。 ●西燕は本来、前燕の後継政権。 ●西燕は建国当初から親慕容垂か、反慕容垂かで内紛。 ●慕容永が内紛を終息させる。 ●西燕における親慕容垂か、反慕容垂かで対立する理由。 ●慕容垂と慕容儁の不仲について ●野心家慕容永の登場。 ●慕容永、慕…

384年前秦分裂から394年完全滅亡までの事の顛末。

●前秦崩壊は三勢力独立がきっかけ。 ●385年8月に姚萇が苻堅を殺して前秦は事実上の滅亡。 ●苻堅殺害を受けて後を継ぐ庶長子苻丕。 ●苻丕は西燕に負けて逃走、東晋軍と遭遇し戦死。 ●苻堅後の華北。 ●苻丕の後を受けた苻登は姚興に敗れ去る。 淝水の戦い後の…

前秦だけではなく鮮卑慕容部も後燕と西燕に分裂した。

●慕容垂と慕容泓の自立。 ●鮮卑慕容部が後燕、西燕に分裂したと言い切る理由 ①元号 ②慕容垂「燕国の王」の意味 ●鮮卑慕容部が後燕と西燕に分裂した背景。 ●異民族の流儀、弱肉強食を地で行く慕容垂 ●慕容垂に河北帰還を妨げられた慕容儁の子供たち ●慕容垂は…

淝水の戦い大敗後、前秦分裂。 きっかけは慕容垂。

●淝水の戦いから北魏華北統一まで56年 ●苻堅、淝水の戦いで大敗した後すぐに起きたこと ●前秦外様最大勢力の鮮卑慕容部と羌族姚氏 ●慕容垂、慕容泓、姚萇の独立で、前秦苻堅は崩壊する。 ●慕容垂の自立 ●慕容儁の子で慕容暐の弟慕容泓の自立。 ●姚萇の自立 ●…

桓温の「嘘」=皇帝の婿で法家の桓温は貴族名族たちに嫌われた=

さて、桓温である。 ●桓温は名実ともに兼ね備えた英傑。 ●庾氏も桓温も法家だから土断をする。 桓温が実態と乖離して悪く書かれる理由。 それは、 後に漢人の貴族名族たちが桓温を嫌ったためである。 ●桓温は名実ともに兼ね備えた英傑。 桓温は、王敦と庾氏…

東晋の桓玄=西晋の司馬倫

●司馬倫とは ●軍閥化 ●桓玄と司馬倫の家庭環境。 ●桓玄、司馬倫は皇帝を尊重しない ●皇帝という権威を崩壊させた、司馬倫と桓玄。 桓玄は西晋を亡国へ導くきっかけとなった、 司馬倫に 非常に似通っている。 ●司馬倫とは 司馬倫とはだれか。 司馬倫は、 狭義…

【英雄曹操になり損なった桓温〜桓温その生涯のまとめ〜】

英雄になり損ねた桓温の生涯をまとめる。 ●曹操は当時の英雄たちのあこがれ ●桓温の生い立ちと、立身のきっかけ ●桓温、亡き東晋皇帝明帝の婿となる。 ●庾氏三兄弟勢力の一翼を成す。 ●桓温の最初の電撃戦、成漢討伐は独断専行。 ●桓温、殷浩を追い落とし、…

王敦の「嘘」 東晋史の真実

一方、 東晋において、悪く描かれるのは、 王敦、桓温、司馬道子、桓玄だ。 しかし彼ら視点で、 調べると、彼らにはいろいろな言い分がある。 ●東晋を実際に作ったのは王敦 王敦は事実上東晋の基礎を作っている。 司馬睿は旗頭に過ぎない。 王導は王敦よりも…